「ヒトコトヌシ」

 五階の一角が一郎の牙城になっているのは、生活者の人数が増えても変わらなかった。

 ただ、三階の男部屋に割り振られていた一郎の部屋は実質、急患の入院部屋となっている。同室者は岩代イワシロだが、こちらも下手をすれば医療室に使っている部屋で寝起きしている。


「…変なの。こうなってからの方が、頻繁に連絡くれてる」


 一郎のデスクに置かれたパソコンで、心配する心情は読み取れるが具体的には中身のないメールを無言で読み切って、ミヤコは苦笑した。

 その頭を、一郎がでる。今よりもずっと幼かったときに、戻ったような気分になる。何故運動会にも参観日にも母は来てくれないのかと、泣いて祖母や叔父を困らせたときのように。

 あの時も今も、誰かを困らせたいわけではないのに。


「ごめん」

「何が?」


 柔らかく、一郎が笑う。

 その笑顔を見ながら、そう言えば一郎兄さんが初恋の人やったなあ、と、京はぼんやりと思い出した。

 お父さんと結婚する、というのと変わらない、他愛ない感情。それは、一郎が母に向けた感情を知ったときに容易たやすく自覚し終わりを迎えた。

 たまに、飛鳥アスカが何か勘違いをして一人で焦っているのに気付くが、わざわざ訂正する気にもならない。

 あの兄は、そういったことにはとことん鈍い。むしろ、勘違いできていることをめるべきなのかと思うほどだ。

 きっと、ハルの気持ちには微塵みじんも気付いていないに違いない。ましてや――ミサキの気持ちになんて、無理がある。


「京。実は、呼んだのにはもう一つあって。飛鳥が来てからにしようかと思ったけど、和哉カズヤ君に呼び止められてたし、もうちょっとかかりそうやな」


 和哉の名に、顔をしかめてしまったことに気付いて慌てる。一郎は、そのことに気付いてだろう、苦笑いを浮かべた。


「和哉君、苦手か?」

「苦手って言うか…」


 嫌いか、と訊かれれば誤魔化せたのだが、認めるにも否定するにも微妙で言葉に詰まる。京は、机越しに覗き込むようにした叔父を見て、目をらした。

 苦手と言うか。

 改めて言葉にしようとすると、京自身にさえ八つ当たりのように思えてしまう。それをそのまま口にしたくはなくて、京は、一郎がかさないのに甘えて言葉を探す。


「…なんか、こわい」

「こわい?」

「うん…なんやろ…あの人、一緒に来た人たちとおっても、恵梨奈エリナさんとおっても、あんまり楽しそうじゃなくて。でも、お兄とかクラさんとか、慕ってるし…何か、起きそうでこわい」


 言ってから、自分で驚く。

 そうか。嫌いで苦手で、それよりも、違和感があった。

 和哉は、にこにこと笑いながら一段高いところにいる。決して、そこから降りて一緒に語ろうとはしない。


「よく知らんし、あたしが勝手に敵意持ってるだけかも知れん、っていうかその可能性の方が高いんやろうけど。ただ、よそ者やのにって悪い部分探したがってるだけかも知れんのやけど。大体、何かって何ってあたしも思うし」


 あれだけ考えたのにただの悪口のような気がして、ついつい早口で言い訳を挟んでしまう。

 一郎は、そうやなあ、とのんびりと言って、腕を組んだ。デスクに座るように寄りかかり、行儀悪く、片足を引き上げて両腕で抱え込んだ。

 そういうことをすると、一郎は、まだ大学生くらいに見える。


「俺のちょっと上の世代、丁度香里さんくらいかな。香里さんたちが小学生くらいのとき、転校生が宇宙人やったり何か企んでたり超能力つかえたり、っていう設定がやたらあったらしいんや。ドラマとか、小説。昔の、村と村がそうそう頻繁に連絡取ったりもできんかった頃にも、たまに訪れる旅人は、貴重な情報や品物をもたらしてくれる半面、どこのどんな奴かわからん危険人物でもあった。知らんことはこわいことなんや」


 まあ、知れば知るほどこわいっていうこともあるけど、と呟くように口にする。

 一郎は、京を見ないまま続けた。


「これ、多分反則やから内緒な。和哉君が人と距離を置いてるのは、持ってる力が関係してるらしい」


 そう言えば、和哉の能力を聞いたことがない。

 一緒に来た面々は、それほど接点がなくても一緒に暮らしているのだからそれなりにわかってきているのだが、改めて思い返してみて、全く知らないことに吃驚する。


「飛鳥は、言霊って言っとった」

「…コトダマ?」


 聞いたことはあるし何となく意味も知っているような気がするが、普段の生活で使う言葉ではない。

 京が困惑して眉根を寄せると、一郎は視線を外したまま頷いた。


恭二キョウジ君は、一言主みたいって言っとったけど」

「ヒトコトヌシ?」


 こちらは、はっきりとわからない。

 それに、見ただけで能力のわかる飛鳥はともかく、余程のことがない限り能力を使わないようにしている恭二が、どうやって知ったのかもわからない。

 飛鳥に聞いたのかと思うと、妹なのにと、少し悔しくなる。


「いいことも悪いことも一言だけげるっていう神様。有名な神社が、奈良やったか大阪やったかにあるとか。恭二君からの受け売りやけど。――和哉君の力は、言葉に従わせること、らしい」

「え?」

「一度に複数には無理とか直接聞かせなあかんとか一つの動作についてのみとか、制約はあるらしいし言ったことが全部そうなるわけじゃない、らしい。らしい、ばっかりで悪いな。俺も、細かくは聞いてないんや。ただ、飛鳥が、凄いって言っとった。その力を、ここではほとんど使ってないって」


 そんなの、本当かどうかなんてわからない。

 先に飛鳥が、例えば和哉に悪感情を持つなだとか和哉に関しては盲目状態になれだとか、そういった「言霊」をかけられていないとはいえないのではないか。

 だが、京はその言葉を飲み込んだ。そんなことを言えば、惨めになるような気がした。

 ゆっくりと、頭を振る。


「一郎兄さんの話は?」

「ん?」

「さっき、何かそんなこと言わんかった? お兄まだやけど、とかって」

「ああ」


 肯いて、一郎は手を当てて口元に微苦笑を隠した。見つけてしまった京は、話題をらしたことをそのままにしてくれることに、少し感謝する。

 一郎は、やや申し訳なさそうに目線を落とした。


「岩代がここを出るらしいんや。俺も、それについて行こうかと思ってる」

「―――そう。いつ? どこ行くん? 荷物まとめなあかんな」

「んん?」


 ぱちくりとまばたきをすると、童顔が一層強調されて、やはり大学生くらいに見える。京は、思わず笑ってしまった。

 一郎は、眉間に寄った皺に人差し指を当て、うーんと声をらした。


「一緒に来るんか?」

「え、置いて行くつもりやったん? ひどい、一郎兄さんがそんな人やとは思わんかった。お母さんに言いつけてやろっと」

「いや、でもなあ。今の生活よりかなり大変になるし、ここのが友達もおるし…」

「うーん。でも、一郎兄さんがおるのが当たり前やから、なんかなあ。あたしから家出るまではおってくれるもんやと思ってたから…一郎兄さん、お母さんには告白せぇへんの?」


 ごつと、鈍い音がした。一郎が、勢いよく額を机に打ち付けている。べたやなあと、京は心の中で呟いた。

 一郎は机に突っ伏したような状態のまま、うめき声を上げた。


「…京、どうして、それ…」

「えー? 一郎兄さんがお母さん好きなのは見てればわかるやん。あたし、いつ一郎兄さんがお父さんになるんかなーって思ってたんやけど」

香里カオリさんにはススムさんがおるやんか」

「あたしが生まれてからほぼ一貫しておらへんお父さん? 娘としては非情かも知れんけど、覚えのないお父さんより、ずーっと一緒におってくれた一郎兄さんの方を断然応援するけどなあ」


 それを言えば、母に対しても親子の感情は薄いのだが、そこはそれ。

 いつまでっても顔を上げられない一郎を見つめて、京は肩をすくめた。その背後で、戸の開く音がする。


「ん? 京、叔父さんいじめたらあかんぞ」

「うわ失礼。ていうか遅すぎやし」


 呑気な声に振り向いて、睨みつける。飛鳥は眼鏡をかけたまま、誤魔化すように頭を掻いた。


「悪い、ちょとカズさんと話し込んでた。叔父さん、話って警邏隊どうこうと関係ある?」

「ケイラ…?」


 飛鳥がパイプ椅子を出して京の隣に並べている間に、一郎はどうにか復活を遂げた。

 首を傾げる京とは違って、半ば感心したように、残りの半分は当たり前のように、飛鳥を見る。

 前から思っていたが、この二人はどうにも、京の知らないところで話を進める癖があって癇に触る。

 自分が二人よりも何かと及ばないことくらいは自覚しているが、それが一層癪だ。


「和哉君から?」

「うん、そのことで話してて。やっぱそれ?」

「まあ…それと言えばそれか。岩代が、大手になるなら他に医者も派遣してもらえるやろうからなかなか人の行かんところにでも移るって言っててな。俺も、それに便乗させてもらおうかと。組織管理は、田代タシロさんと和哉君がおればどうとでもなるやろうし」

「あー…なるほど。そっか。…じゃあ俺、どうしようかな…」


 飛鳥が、腕組みをして考え込む。眼鏡をかけるだけで顔つきが違って見えて、京の目には、慣れ親しんだ兄とは違う人にも見えた。

 そこで、急激に腹立ちが上昇した。低い声が出る。


「あたしにも、わかるように話、してもらえる?」


 飛鳥と一郎が、揃えたように京を見る。ありありと慌てているのがわかる様子で、ちらちらと目線で会話をしている。余計に、京の眼が据わった。

 年長者同士だとか男同士だとか、そんな連帯感、京にはない。


「聞く権利もないとか?」

「いや、そういうのじゃ…えっと…」

「そういうのじゃないなら、何?」


 にっこりと、京は笑って見せた。そういえばこれは母の得意技だったと、やった後で思い出した。

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