恋する馬鹿者⑤

「ああ大将、どうしてあんたは大将なの?」

「はい生もう一杯追加ねー」


 私が突き出した中ジョッキのグラスを見ると、ねじり鉢巻きをした大将は威勢の良い声で答える。だから何故にあんたは大将なのかと尋ねているのだが、その答えはいつまでたっても返ってはこなかった。代わりになみなみと注がれた麦酒が突き返される。

 私は何も言わずにそれをグイと呷った。

 場所は居酒屋である。別に行きつけというわけでもない。店名を「あんたが大将」という。しかし現に大将は私の目の前に存在しており、いまは魚を捌いて活造りにしている。そもそも大将とは一体何か。私がそんな複雑極まりない命題に挑戦しようとしていたならば、隣のカウンター席に座っていた酔っ払いが声をかけてきた。


「お兄さん、楽しそうに飲んでますね」

「分かりますか」


 普段なら支離滅裂で要領を得ない酔っぱらいの話なぞ聞く耳を持たないが、今の私は気分がよいために応える。


「それはもう、豪快にガバガバと飲んでいる姿を見たら声もかけたくなります。それ何杯目かしら?」

「はて気にしていなかったから、分からないな」

「それで何かいいことでもあったんですか?」

「うむ」


 そうして私は酔っぱらいに対して、私の上手く行き過ぎている人生について語った。特に最近になって巡り合えた運命の出会いについて。彼女は「あはは」と気のない笑いをしながらも、私の話に心酔しているようであった。きっとそうに違いない。


「しかし社会の窓を開けっぱなしにねぇ」

「故意ではない」

「未必の故意って知ってます?」

「ええい、私は無実だ」


 私が残った麦酒を飲み干しにかかったところで「そういえば」と前置きをして酔っ払いが尋ねてくる。


「社会の窓を開いていたら彼女が出来た話って、実際にあったそうですね――ラブラビットってご存じあります?」

「聞いたことはある」


 恋するウサギ。ここいらの酒飲み界隈ではそこそこに有名な余興話であった。なんでも昔に実在した怪人物をそう呼称しているらしい。だが名前を知っているだけで詳しくはない。その社会の窓云々という愉快気な話も聞いたことなぞなかった。


「しかし、社会の窓かぁ――うん、いいですねそれ」

「なんだか知らんが、お役に立てたのであれば良かった」


 しきりに「社会の窓」という単語を連呼しては頷く酔っ払いにそう言っておいた。彼女はそのまま終始ぶつぶつと呟いている。その様は実にまあ酔っぱらいらしく、私は悪酔いに巻き込まれては大変だと、勘定を済ませて外へと出ることにした。

 外はすっかりと暗闇に包まれており、寒さもひとしおだ。しかし往来の人々はうらぶれた様子もない。心なしかいきいきと活気に溢れているようにさえ思える。遠目にはキラキラと輝く通りが見えた。あれは駅前の通りであったはずだ。人々はあちらの方から歩いてきているようだった。

 きっと時期のせいだろうな。

 私はイルミネーションに塗れた街の様子に背を向けて歩き出した。

 気分がよい。理由は諸々ある。

 活気づいた街の様子にあてられたということ。明日が休日で珍しく何の予定もたっていない日であるということ。今日のホームルームにて近況報告をした際の生徒達の顔が痛快であったということ。

 そして千鳥さんとまた会えるということ。

 私は愉快な気分をそのままに鼻歌なんてものをしながら歩いていった。

 曲名はこの素晴らしき世界。まるで私の心情を代弁してくれるようなこの曲に、サッチモに感謝をしつつ歩いて行く。彼の歌声を模倣することは難しい。そんな風に冬の夜を満喫していたならば、行先に一人、まるでこちらを待ち構えていたかのように立っていることに気づいた。道路の中央に屹立しているその人物は見知らぬ者ではなかった。


「あなたは――」

「こんばんは。良い夜ね」


 とても魅力的な女性。私が太陽と呼称する女性であった。

 都合これで三度目の邂逅である。

 ここまでくると単なる偶然では済ませられぬ。多少に酔っていたとしても私の頭もそこまでめでたいものではなかった。


「こんばんは。ところで何か御用なのでしょうか?」

「あら、そんなに身構えないで頂戴。大丈夫、一つ聞きたいことがあっただけだから」


 私の警戒したような声音に気づくと、彼女はそれまでの妖艶な微笑みから一変、コロコロと無邪気に笑った。まったくもって蠱惑的で私は更なる警戒心を抱いて彼女の言葉を待った。


「あなたは運命の出会いを信じるかしら?」

「それはもう」


 自らが体現者であるゆえに素直に頷く。

 私のその様子に彼女は笑顔を深めると続けて質問してきた。


「ではあなたは運命を変えたい?」

「質問の意味が分かりかねます」

「いいからいいから」


 彼女は手をひらひらと蝶のように華麗に翻す。「直感でどうぞ」と言う彼女の楽しげな様子に圧されて、私は渋々と口を開いた。


「今のところは、変えたいとは思いませんね」

「そうかそうか」


 顎に手を添えて「ふむふむ」と言わんばかりに頻りに頷く彼女はいつの間にやら、私の目の前までやってきている。私は不覚にもドキリと鼓動を跳ね上がらせてしまうも千鳥さんのことを思い浮かべて理性を保つ。


「あなたの希望は承ったわ。さしあたってはこのまま様子を見ることにしましょう」

「あの、一体何なのです?」


 私のその質問には意を介さず、彼女はカンラカンラと笑いながら私から離れていく。


「運命なんてもの、意外とコロコロ変わってしまうのだから、しっかりと捕まえておきなさい。愉快なモノを見せてくれることを期待しているわ」


 そうして太陽のような明るい笑顔をふりまきながら彼女は去っていった。残された私はというと、疑問符を心内に大量に抱え込みながら呆然としていた。


「彼女もまた酔っていたのだろうか?」


 そうして納得するしかない。

 清廉潔白な私とは違って、世の中には奇天烈な人間が多くいるというのは知ってはいる。だが、こうして妙な後味を感じるのは稀であった。特段に嫌悪感を覚えることもなく、かといって私が得たものは何もない。奇々怪々な夜の一幕であった。

 まあこんな夜があっても良かろう。

 私はそう思い直すと再び冬の空の下を歩き始めた。

 酔いはすっかり醒めてしまっていたために、無言で行く。

 適度な眠気を感じながら鼻がムズムズした。アクビとクシャミ、どちらを優先して出すべきかと悩んだ末にクシャミを選んだが、上手くいかずに盛大な大アクビが出た。

 中々に上手くいかないものである。

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