男女の友情⑰

 何もない広大な土地を駆け抜けるという行為は、思ったほどに楽しめないものである。確かに清々しさはある。延々と続く地平に対して自由気ままにする行為は、爽快であり思想的な楽しみは見いだせることだろう。しかし、走ること自体が楽しいかと問われるとそうでもなく、立ちどまってしまうこと請け合いだ。案外に、障害物を避けながらの方が夢中になれるものである。

 それとて度が過ぎれば、厄介だ。

 私は息を荒げながらに、そう思った。


「寅次郎、次は目の前の一団に突っ込もう」

「集団のド真ん中ではないか」


 私は頭上にむけて返事をする。


「大丈夫だろ。横にひろがっているだけで、超えた先は薄い。それに気の弱そうな顔ばかり並んでいる。タックルをしかけられるような度胸はあるまい」

「それは確かか、根拠は?」

「勘だ」

「大雑把っ」


 私と鈴木の二人は、連れ立って広場の中を疾走していた。

 広場の中を縦横無尽に駆けめぐり、亀の団の幽鬼たちを翻弄しては逃げ回ることを繰り返す。目的は猿渡と犬塚を逃がすための囮である。唯一に気がかかりだったのは、幽鬼たちが私達のことを追走対象とするか否かであったが、問題なく追いかけてくる。

 しかし、連れ立ってというと語弊があるかもしれない。鈴木はというと私の肩の上に乗っかっているからだ。所謂、肩車である。柔道技ではないほうだ。囮として目立つため、そして遠くを見渡して状況判断をするためだ。最初こそ普通に逃げ回っていたが、意思疎通が悪く、はぐれそうになることが多かったためにこういう形に相成った。役割分担とはいえ、足を動かすのは私ばかりである。

 覚悟を決めて集団の中央へと突入していく。目論み通り、こちらの勢いに怯んだ一団が三々五々に散らばるので、私達は難なく集団を突破した。


「痛快だな」

「貴様はな」


 愉快気な鈴木に、不満を込めて言ってやる。


「次は何処へ行く?」

「少し待てよ」


 それまで邪魔にならぬように体勢低く重心を下げていた鈴木が背を伸ばし、周囲遠方を見渡す。立ち止まったのも束の間、即座に指示がくるので走り出す。


「そろそろ私達も逃げるぞ」

「しかし」

「今しがた、貴様の生徒からメッセージが届いた。安全な場所まで逃げ切ったようだぞ。『寅ちゃん、愛してる。大地の次に』だそうだ。よかったな」

「あの娘は」


 鈴木に預けていた携帯電話に無事の連絡が入ったことは喜ばしいが、その呑気さに呆れ果てる。前々から思っていたが猿渡は余計な一言が多い。


「それに先程より千鳥からの着信がひっきりなしに鳴っている。現状としてこれに出て説明する暇はないからな、二人とも後でしこたま怒られるぞ」

「う……了解だ」


 私はといえば、彼女を放ってこの場所に立っているのである。それは到底、並みの謝罪では許されるはずもなく、私は土下座する覚悟を決めた。

 かれこれ数分は囮として逃げ回っている。

 広場に残る男女は私達以外にはおらず、既にみな逃げおおせていた。

 私達は当初から示し合わせていた通りに、高架連絡橋からの逃亡を試みる。そのまま商業ビルへと至り広場外へと出ていく算段である。まさか幽鬼たちも人混みある往来にまでは追ってはこまい。


「寅次郎」

「なんだ?」

「愉快だな」

「それは貴様だけだと言っておろう」

「それでも私は伝えずにいられないのだ、今日という日は本当に楽しい」


 鈴木が懲りずに話しかけてくる。その声音は言葉どおりに楽しげであり、幼子のように嬉々としている様子が想像できた。

 思えばこいつはあまり馬鹿をしない。

 その行為に理解はあるも、自らが行いはしない。そういう奴だ。それがどうだろう、今日という「あの日」に……面倒なのでそろそろ割愛する。クリスマスイブにおいて男の頭上に座し、社会の窓を開き輝かせる訳の分からぬ変態集団に追われる、今のこいつは馬鹿そのものである。

 だから私は言ってやることにした。


「私は疲れるばかりだ、それに教師として生徒への示しというものがある。浮かれてばかりではいられん」

「そうか」

「それはそれとして、こうして貴様と馬鹿をするのは悪くない」

「――それでこそ寅次郎だ」


 鈴木の顔は頭上にあるために、どのような気持ちでいるかは解することが出来ない。それでも奴の胸中が少しでも和らいでくれたのであれば、友人として上々であろう。

 そんな自賛を思いながら階段を駆け上がる。あとは連絡橋をひたすら突き進み、向かいのビルへと入るだけであった。

 そこで私達は一つの異変に気づいた。

 音楽が止んだのである。

 それまでクリスマスイブらしく讃美歌なぞが流れていたのであるが、それがピタリと止んだのだ。そうして代わりに聞こえてくるのは弦楽器と管楽器の控えめな調べ。そうかと思うとすぐさまに力強い音が加わり、それは躍動的で人々を鼓舞するような音楽へと変化した。

 妙に聞き馴染んだメロディ。それは題を「地獄のオルフェ」、別名を「天国と地獄」という。運動会によく流れるアレである。決して聖夜に大音量で流れるような曲ではない。


「今日は一体何が起きている」

「なんとも丁度良いタイミングではないか」

「これは貴様の仕業か」


 訳知りのような物言いの鈴木に問いかける。


「いやなに、先程にリクエストをしただろう? ラジオブースで。これは私の注文だ」

「何故にこの選曲なのだ」

「直感としか言いようがないな。『亀の団』を想像したときに、彼らに合う音楽とは何だろうと考えた結果だ。それがこのような状況で選ばれるとは、ディスクジョッキーも随分とひょうきん者なのだろう」


 鈴木の言葉を受けて地上にあるラジオブースへと顔を向ける。窓からこちらへと手をふる何者かの姿が見えた。その気さくな様子に、もしかしたら見知った誰かであるのかと思いはしたものの、ここからの距離では確認できない。


「世の中、変人ばかりか」

「その代表格が何を言う。ほれ音楽も変わり、気分も高揚するだろう。捕まらぬようにキリキリ走れい」

「ええい、事こうなればヤケクソだ」


 冬の空らしくカラリとした晴天の月下、駆ける。

 長く広い高架橋の上で女性を担ぎ上げた男性が走り、その背後は多くの社会の窓の光が群がる光景というのは一体どのようなものなのだろうか。

 予想なぞつきようもない。

 加えて耳にはどこか滑稽で愉快気なメロディが流れている。

 聖夜の幻想的な荘厳さなど欠片もない。

 すべて澄みきった天へと吹きとんでしまっていた。

 こんなのはどこからどう見ようとも、喜劇の一幕でしかないだろう。


「楽しかったが、ここまでのようだな」

「もう走れんぞ」


 目前に拡がった景色を見て私達は諦めの声をあげる。

 向かう先である商業ビルからわらわらと幽鬼たちが迫ってくるのを確認したからだ。どうやら先回りをされたらしい。


「ここからは私に任せておけ、寅次郎は休んでいるといい」

「頼む」


 鈴木を肩から降ろすと私は大きく息を整える。その間に鈴木は橋の欄干へとよじ登っている、何を危ないことをと思いはしたが、言葉は荒い呼吸に邪魔されて出なかった。そしていつの間にやら周囲をかこむ「亀の団」の幽鬼たちに向かって、奴は高々と宣言する。


「諸君。まず大事なこととして、私とこやつは恋仲ではないことを申し述べておく」

 

 その主張に幽鬼たちがザワリと動揺する。それにより問答無用で襲いかかられることもなく、鈴木の言動を吟味する流れとなったようだった。


「とはいえ諸君らは疑問に思っているのであろう。恋仲であると認識していないだけで、互いを特別な異性として捉えているのではないかと。冗談ではない。話にもならない。何故ならば、私がこのように人の気持ちを察しようとはするくせに、本質を理解していない男に惚れる道理はまったくないからである」


 私が息を整えているのを良いことに言いたい放題である。確かにこいつが何を言いたいのかは全く理解できないが、それでも言い過ぎではなかろうか。しかし任せると言った手前、邪魔することもできずに大人しく聞き流した。


「しかし、こやつだけを責められる話ではない。私の気持ちを理解できる方がおかしい。昔日の自身の言動さえ疑問を抱くのが人間というものである。そうでない者はよほどの傲慢か勘違い野郎だ。諸君らもそうだろう? 誰も分かってくれないから、自分でも分からないから、ここで燻ぶっているのだ」


 鈴木は身も蓋もない悲観論を述べる。人は理解し合えないと語っているのだ、こいつは。しかし如何したものか、その顔は晴れやかである。とてもではないが、現実を嘆いた者の表情ではない。


「前言を撤回しよう。この男こそは、私の理解者である。何もかもてんで分かってはいない、私の親友である。傍らを見ろ諸君、彼らこそはあなたの理解者足りうるのではないか? あなたの気持ちを少しでも理解できる輩ではないのか? 私は諸君らをみてそのように感じた」


 鈴木の言葉に幽鬼たちは戸惑うように 互いを見合っていた。その様子は少し気色が悪い。しかしそれに満足した鈴木は「私が言いたいことは一つだけだ、諸君」と殊更に声を大きくして言葉を放つ。それは今日一番に楽しそうな笑顔だった。


「恋せよ馬鹿者」


 まったくもって理解が及ばぬ言葉である。何の脈絡もなく出てきたその主張は、だが勢いだけはあった。勢いがあれば仔細はかまわず上手くいくこともある。納得できぬことに、それが現状に即していた。

 鈴木の主張に呼応して、亀の団の幽鬼たちが生気を取り戻す。

 そして誰か否やとばかりに雄叫びをあげだしたのだ。

 その大きさには圧があり、加えてタイミングの悪いことに強風が私達を吹きつける。それらに押されて、私は半歩あとずさったのであるが、途端に背筋を冷やして振り向く。

 鈴木が欄干から身をおとそうとしていた。

 私は彼女の身体をふん掴み、強く引っ張った。その甲斐あってか、奴の思うよりも軽かった身体は欄干の内側へと入りこんで安堵する。しかし、慌てて駆けよった勢いと人ひとりを引き込んだ反動が止まらない。

 私は「あ」と声をあげた。

 身体がどこにも拠ることのないスウとした感覚。血液が無重力に驚嘆して逆流している。

 一瞬にして私の視界は、澄んだ星空とイルミネーション輝くモミの木が天へと伸びている光景に切り替わっていた。

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