恋する馬鹿者④
時刻は宵の口に入り、空の端には赤茶色の光がぼんやりとしており直上には薄暗い闇が拡がる頃である。今日は雲が多いためか月の光が無い。今宵は満月であったはずだ。そんな闇夜の中、私は息を荒げて駅のプラットホームへと駆けこむ。そこにあるのは煌々と明るい電車の車両だった。だが無情にも私の目の前で扉は閉まり発進して行く。光る窓明かりの列を見送りながら、ついに私は両膝に手をついて息を整える作業に没頭した。
頑張ってはみたものの、やはり間に合わなかった。
あと少しというところで発車されると悔しい気持ちが喚起される。犬塚との論議さえなければと思いはするが、あれはあれで有意義な話ができたと考えているので、仕方なしと割り切ることにした。
元より、毎日毎日、都合よく仕事を切り上げられる保証などない。今回のようなことも多々あろうというものだ。しかし今日という日に限って彼女があの電車に乗り込んでいる、そんな可能性というものを気にしてしまう。どうにか確認する術はないものか。「電車内に監視カメラを設置」という言葉が脳裏をよぎる。
馬鹿か私は。
物事には道理というものがある。分別を失くしたらそれは只の犯罪者だ。しかし、そんなことを考えてしまうからこその恋愛というものなのだろう。私は抑えきれない気持ちを確認して、つい興奮と可笑しみがこみあがる。このように何かを渇望する気持ちはいつ以来だろう。学生の頃だろうか、はたまたそれ以前の幼少の頃だろうか。とにかく近年の私には持ちえなかったモノを実感していた。
私はいま、とても楽しいのだ。
荒い動悸と可笑しみによる笑いが混ざりあい、私の呼吸は乱れに乱れてしまう。ゲホゲホと尋常ではない咳き込み具合だった。
「大丈夫ですか?」
そうしていると後方より声をかけられた。たった今に車両が発車したばかりだ、利用客がいるとは思わなかった。そういえば、駆けてくる途中に追い抜いた女性がいたことを思い出す。その人が私に遅れてホームに到着したのだろうか。
「あいえ、大丈夫――」
「そうですか」
私が頭をあげて返答すると女性は安堵したように微笑む。そのまま私から離れてホームに立ち、肩に下げた鞄より一冊の文庫本を取り出すとそれを読み始めた。しかし辺りが薄暗いことに気づいてか即座に諦めて本を閉じた。そして再度所在なさげに立ち尽くしている。私はというと驚きで思考を停止させて彼女のその一連の動作を眺めていた。
彼女である。
見間違うこともない。
目の前には私が恋焦がれた新月の彼女がいるのであった。
私は駅舎へと繋がる階段を背後に、そして前方に線路の行く末と彼女をとらえて、ジッと視線を外せないままでいた。
無人のプラットホームに凛として立つ彼女は、吹き込む風により乱れる髪を片手で抑えていた。肩下まで流れるサラサラとした黒髪が優美である。その表情は如何なものであろうか、薄暗いホームでは窺うことが敵わない。しかしそんな私に天が微笑んだのだろうか、新たな光が追加された。月明かりである。どうやら厚かった雲が晴れて、薄暗かったプラットホームを照らしたようだ。
彼女の姿は、美しかった。
私にはそれ以外の感想が思い浮かばない。
ああこれが現国の教師であるのであれば、一体どんな風に彼女を表現したのであろう。美術教諭であるのなら彼女の何が美を連想させるのか突き止められるのか。一介の数学教師である私にはとてもではないが今の気持ちを表現することが出来なかった。そのことが唯々口惜しいばかりである。
月光に照らされる彼女を見て、ついに私は硬直していた身体を元に戻す。
そして大いに困惑することとなった。
これから何をすればいいのだろう。
お粗末なことであるが、彼女と出会えてからの展望というものを私は持ち合わせていなかったのである。先に私が立てた計画としては会うことまでが重要で、後のことはその際に考えればいいと楽観していた。そして今がその時である。
一先ずはこの場で交流することは諦めて、ゆっくりと時機を見るべきであろう。浮ついた熱に身を任せて行動しても、良い結果になぞならない。私の生涯において、ただの一度たりとてそんな経験はない。
しかし、こんな誂えられたかのような状況がこの先にあると思うのか。
私は自問する。
何の因果か、プラットホームには私達以外には誰もいなかった。そして月下のプラットホームは薄っすらと発光していると勘違いしそうになる。ぼんやりと境が分からない光。辺りは薄暗くてそして寒いのに、それなのにほんのりとした暖かみを感じてしまうのは何故だろうか。その中心にいる彼女から視線を外すことができない。
気づけば私はフラフラと足を進めていた。
それに気がついて腹をくくる。
仕方がない。男というものは、そういう性質なのである。
どうして恋をするのか。
どうして馬鹿をしてしまうのか。
答えは一つ、そこに光があるからだ。
「すいません、よかったら少し話をしませんか?」
私は単刀直入にそう声をかけた。
彼女は意表を突かれたようにキョトンとした顔を見せると、警戒したようにして文庫本を面前に構えた。
「ナンパですか?」
「はい、そうです」
私は嘘偽りなく答えた。もったいぶる必要はない、これはナンパである。女性に軽薄にも交流を迫る、少々問題的な行為である。
「はっきり言いますね」
「というのも先程に電車を逃してしまいまして、次の車両はだいぶ後になるようです。もしお暇であれば話し相手になってくれないかと思いまして」
「スマホでも見ていればいいのでは?」
「もちろん、ご迷惑であればそうします。けれど私はそれよりもあなたとお話したいと思います。如何でしょう?」
私は精一杯に誠実を装ってそう問いかける。駆け引きも何もあったものではない。その代わりに打算や欺瞞もない。私の言葉はすべて本心である。それこそが現段階でできる私の彼女への好意の示し方であった。
そんな私の気持ちが少しでも伝わったのか、彼女は構えていた文庫本を下げると顎に当てて、しばし考え込んだ。その顔は当初ほどの拒絶を感じない。けれども完全に警戒を解いてくれたわけでもない。そのとき、ふと私は自らの立ち位置について気がついた。彼女と階段との間を陣取るようにして立っている。これでは不安で話しどころではないだろう。なにせ私は唐突に話しかけてきた不審者なのだから。私は彼女を迂回するようにして隣に立った。距離は離れて会話はできるほどに。
「手慣れていますね」
「えいや、そんなつもりはないのですけどね」
私の行動の意味に気がついたのか、彼女が訝しむような視線を向けてくる。そして、そのまま周囲を見渡していた。ホームには若干数の人の姿があった。話している間にチラホラと人が増えてきている。それを確認してようやく彼女は返答をしてくれた。
「それでは何を話しますか?」
「ありがとう」
私は喜びに打ち震えた。これが私にとって初めてのナンパ成功である。ここぞというときに成果を上げることができる私は天に選ばれた男なのかもしれない。
「まずは謝礼ですかね」
「謝礼?」
「あなたは覚えていないかもしれませんが、一度、お会いしたことがあるのですよ」
「そうなのですか?」
「ええ」
「すいません、覚えがありません。いったい何処で会ったのでしょう?」
その質問に私は言いよどむ。だが彼女には誠実をもって接すると決めたので正直に答えた。
「電車内で、その、社会の窓が開いていることを指摘されました」
答えると彼女は「社会の窓というと……」と呟く。しばし記憶を探るように視線を上に向けていると、唐突に「ああ!」と大声をあげた。どうやら思い当たったらしい。
「その節は大変お見苦しいものをお見せしました、申し訳ない」
「いっいえ。私もあの時は不躾にも差し出がましい真似をすいません」
彼女は当時のことを思い出したのか顔を赤くしてこちらに詫びてくる。昨今、あんなものを見せつけられたとしたら訴えられる可能性もあるのではと思うのに、この女性は違った。彼女は女神様なのかもしれない。
「あのときは私も、その色々とありまして少し自暴自棄気味だったというか、そんな中あなたに声をかけられて笑ってしまいまして、助かりました」
「そう言っていただけると」
彼女は恥ずかし気な様子を崩すことなく畏まる。どうにも彼女にとって得意ではない話の向きであるらしい。彼女を困らせることは本意ではないので話題を変える。
「私は安田寅次郎といいます。お名前を伺っても?」
「――藤枝千鳥といいます」
一瞬、名のるのを躊躇う素振りを見せるも、彼女は答えてくれた。やはり全くの初対面の相手ではなかったというのが大きかったのだろうか。そうとなるとあの日、チャックの開閉に無頓着であった自分を絶賛したくなる。
それから私達は話しこんだ。
そうは言っても話す内容は、当たり障りのない世間話である。私が高校教師であることを明かすと彼女は仕事の話を聞きたがった。聞けば教師は彼女の小さい頃の夢でもあったらしい。それなので生徒達との面白おかしい話を中心に語る。興味深そうに相槌を打つ彼女の顔が印象的だった。彼女のことについても教えてもらった。昼間は会社で事務業務に携わっているらしい。活字を読むのが趣味であり、電子書籍よりも製本派だという。
そんな他愛ない話をした。
他愛ないながらも私は天上にのぼる気持ちを味わっていた。彼女と過ごす甘美な一時、私は幸せで死にそうになる。死因はきっと過度の糖分摂取だ。
そんな私を見かねてまたもや天が気を利かせてくれたのであろう、終わりがやってくる。おのれ、天。遠くから列車の光がやってきたことに気づいたのだ。遅れてホームに響きわたるアナウンス。私たち二人はどちらともなく会話を止める。
「つきあってくれてありがとう」
「いえ私も楽しみました」
互いにそれしか語ることがない。私の脳内ではしきりに己を叱咤する声が響いている。この機を逃すな、お前はまたも偶然の出会いに頼るつもりなのかと。しかし私の口からは中々に気の利いた言葉が出てこない。そうしてまごまごしている間に電車は到着して、プシャという音をまき散らし扉が開く。
「それでは私は電車に乗りますけど?」
「いえ私はこの電車には乗りません」
「そうですか」
彼女が聞いてきて私が答えると、彼女は電車へと乗り込んでいく。私は咄嗟になって口を開いた。その言葉は趣も何もなく、私の生の感情が飛び出たかのようだった。
「また会えますかっ」
「――」
私に背後を見せて車両に乗り込んだ彼女はピクリと微かに身体を震わせた。だが、それだけで何も変化はない。やきもきする私は、こうなれば私も電車に乗り込むしかないと足を動かしかける。すると彼女は振り返る。
「私はいつもこの時間の電車に乗りますので、機会があればまた」
告げる彼女は薄く微笑んでいた。その表情に私が見惚れたことは言うまでもない。
そうして私が言葉を返す間もなく扉は閉まる。そのまま電車は彼女を連れて去っていった。
私はというと、しばらくの間、呆けてホームの置物と化していた。過ぎ行く列車を何本見送ったかは数えてはいない。ようやく我にかえったのは周囲の灯りが唐突に瞬いたためであった。どうやら長い間、プラットホームの灯りのみ消失していたようである。道理で薄暗いと思っていたものだ。理由は分からない、きっと故障だろう。煌々と輝く電光が私の脳髄に突き刺さる。
私はその刺激を受けて笑いが止まらなかった。高笑いだ。
このような良き日に笑うなというのは無理である。私は狂ったように喜びを表現することを抑えきれなかった。
そうして駅員に同行を求められて別室に連れていかれたのは秘密である。
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