恋せぬ賢者⑫
私と鈴木の両名はどうにも酒の容量が人より多いらしく、自然と前後不覚になった手合いの対処については慣れていた。よって滞りなく処理はすすむ。酔いつぶれた辰村嬢の容態を確認して医療機関への通報は必要ないと判断すると、店内に残る粗相の跡を綺麗にする。それと同時に大将や他の常連客に一言告げると、彼らは快く許容してくれた。気持ち悪そうに呻っている辰村嬢を担ぎ上げ店をあとにすると、そのまま駅近くのビジネスホテルへと彼女を放り込み、あとのことを鈴木へと任せた。私は二人分の宿泊料金を受付に支払ったのちに外へ出て「ふう」と息を吐いた。
少々やりすぎたかと反省する。
せめて彼女の近親者に連絡ぐらいはしておこうと携帯電話に手を伸ばすも、駅前まで出てきたのであれば直接報告したほうがいいと思い直した。向かうはBAR「ラブラビット」である。
「そいつは、すまなかったね。迷惑をかける」
「いえ、こちらこそ。調子にのりすぎました」
店のマスターである師匠に事情を説明して頭を下げると、彼は「せっかくきたのだから、どうです一杯?」と勧めてくれる。「では遠慮なく」と私はそれを受諾した。しばらくは互いに酒の席での失敗談などを語り合い、和やかに時を過ごしたのであるが、ふと会話が途切れたのを機とみて、私は話をきりだす。
「真緒さんから話は聞きましたよ」
「何をです?」
「師匠が隠居した理由です」
「大した理由ではなかったでしょう?」
「十分な理由だと思いましたがね」
師匠は私の言葉をきいて「ふむ」と頷いた。そのままチラリと周囲を確認するように視線をまわすと、最後に店内にかけられている振り子時計をみる。
「今日はもう店じまいですな。看板をさげてくるので少し待っていてください」
その言葉を聞いて腰をあげかけるも、手で制されてしまう。彼は店外へと出て、戻ってくると酒の瓶とグラスを一つずつカウンターテーブルへと置いた。とくとくと琥珀色の液体がグラスの氷に染み入っていく様を静かに眺める。
「これからは営業時間外というものです。お客さん、私の話を聞いてもらってもよいですかな?」
「ええ、構いませんよ」
互いに杯を掲げて、口を湿らせる。そうすると言葉の滑りが良くなったのか、一息ついてから師匠が語り始めた。
「私がかつて結びつけた二人は、とてもいい子たちでありました。男性は自らの気持ちに無頓着なフシがありましたが、誠実で優しく、女性の方は好奇心旺盛で、まるで幼子のように喜びを表現しては周囲を和ませる魅力がありました。ただ互いに奥手なのが玉にキズで、彼らの友人達は皆、どうなることかとヤキモキさせられていましたよ」
私は相槌をはさむこともなく、ただ黙って彼の語りを聞いていた。そうなると店内は異様に静かで、時折にグラスの氷がカランと溶ける音が気になるほどである。
「私はあの手この手を使って二人の仲をとりもちました。いざ結実という段においては、一生の記憶に残るようなエンターテイメントを用意したぐらいです。ふりかってみても、あれほどに手応えを感じた仕事は無かった。その日は大いに満足して家路につきましたよ。恋する兎がまた一つ、幸せをつくったのだとね。そうして揚々と帰宅したのなら、我が娘が家出しておりました」
師匠は「唖然としました」と苦笑してグラスを呷る。
「親の目とは厄介なものですな。あれだけ男女の機微を見抜くことに自信を持っていた私ですが、恥ずかしながら、娘は何が不満でいなくなったのか見当がつきませんでした。気づいたのは女房に張り倒された後でしたよ。『あんたは娘の何を見ていたんだ』とね。それからですな、私が他人の恋愛に介入することをやめたのは」
「それは災難でしたね」
そこで私は気になっていたことを尋ねる。
「後悔しているのですか?」
辰村嬢曰く、師匠は未だに実娘の恋路の邪魔をしたことを気に病んでいるという。しかし予想に反して、師匠は「いいえ」と否定の意を示した。
「真緒の奴は誤解しているようですが、たとえ我が子に恨まれようとも、私はあの前途ある若者二人の応援ができたことを誇らしく思っています」
「では一体どうして?」
「――」
師匠はそこで一度、言い難そうに言葉を詰まらせるも、酒を少々多めに流し込んでから口を開いた。
「私は恋愛とは素晴らしいものだと思っております、今後もそれは変わらないでしょう。ただ、その性質をどこかしらで見誤っていた。想いを成就させることが誰にとっても幸せであると勘違いしていたんですな。ときには私の娘のように、想い人を失って悲しみにくれる者もいる。そしてときには――願いを叶えた当人達の不幸だってある」
師匠は「私が縁組をした人たちの『その後』を追ってみたのです」と語る。
その結果はというと、必ずしも幸せなものばかりではなかった。
想いを遂げることにより無用な困難を強いられたもの。恋愛相手の実態を知ってしまい、幻滅という無慈悲な結末に陥ったもの。中には「青春の日々を後悔している」と言いきったものすらいたという。そしてそんな無情を辿ってしまったものの数は、決して少なくはなかった。
「恋愛とは成就してしまったら、良くも悪くもそこで終わります。そこから続いていくのはまた違った物語です。残念ながら私には、それを手助けできる才が無かった。それが唯々口惜しい。思えば、私も調子に乗って多くの人々の人生を掻きまわしてしまった。老骨がこれ以上に無用なしゃしゃり出をするのは道理に反するというものです」
私はかろうじて「そのようなことはないと思います」と口に出すのが精一杯であった。それ以上には言葉が見つからない。
「勘違いないように言っておきますが、私はなにも、深刻な葛藤を抱え込んでいるわけではないですよ。そんな風に自らを責める趣味はまったくありません。そんな殊勝な人間ではないですから。ただまあ――興が削がれたというべきでしょうなぁ」
師匠はそう言って、もう何度目かも分からない苦笑を浮かべる。無愛想な彼にとっては珍しいことだが、だからといって嬉しい感情は湧いてこない。
「初代の怪人『ラブラビット』はそうしてウサギの穴にひっこみました。そうですな、もしそいつが再び姿を現すとしたなら、それは面白そうなエサを発見したときでしょう。幸せだ不幸だ後悔だなんだと、些事に拘らないような馬鹿な恋愛。我こそは世界の中心であるから、遠からんものさえ目にも見よと言わんばかりの、馬鹿者達から始まる恋――」
師匠は言う。
「愉快なモノがあれば見せて欲しい。そんな大したことはない老人の繰り言です」
その言葉はどことなく寂しそうに静寂の店内に響いた。
それからしばらくは二人でグダグダと飲み散らかしたが、キリのつかない泥沼に踏み入れ始めたことに気づき、私は勘定を済ませることにした。こちらもへべれけてしまった師匠に見送られて外に出る。そのまま覚束ない歩みで駅前近くにまで戻ってくると、ふと立ち止まった。
外はすっかりと暗闇に包まれており、寒さもひとしおだった。しかし往来の人々にはうらぶれた様子もない。ハキハキとした歩みを止めることもなく、流れゆく表情は心なしか活気に溢れているようにさえ思える。
遠目にはキラキラと輝く通りが見えた。
クリスマスイヴはもう間近にまで迫っている。
私はイルミネーションに塗れた街の様子に、どうしようもない寂寥を感じた。
気分はあまり良くはない。
活気づいた街の様子にあてられたからだ。
往来の片隅で一人、黙然と立ち呆ける私はただの酔っ払いである。そこにいったいどんな意義を見いだせよう。残るのはただ暗雲のように漂う自己否定感だけであった。これではいかんと首をふる。よって陰鬱な気分をどうにかしようと鼻歌なんてものを試みながら歩き始めた。
曲名はこの素晴らしき世界。まるで私の切望を代弁してくれるようなこの曲に、すがるような気持ちで歩いて行く。サッチモの歌声を模倣することは難しい。そんな風に冬の夜に浸る気持ちでいたならば、行先より「こんばんは。良い夜ね」という声が聞こえた気がした。
しかし、顔をあげてもそこには誰もいない。
奇妙な既視感である。
なにか物語の始まりのような、ワクワクとした期待がすり抜けてしまった、そんな消沈の念。妙な後味を感じる、奇々怪々な夜の一幕であった。
まあこんな夜があっても良かろう。
私はそう思い直すと再び冬の空の下を歩き始めた。
適度な眠気を感じながら鼻がムズムズした。アクビとクシャミ、どちらを優先して出すべきかと悩んでいると、結局そのどちらの気配とも鼻頭の奥に引っ込んでしまう。
中々に上手くいかないものである。
人生とはそんなものだと、負け惜しみのような悟りを得た。
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