恋せぬ賢者②

 ここで一度、私の身の上について述べておくこととする。

 性は安田、名を寅次郎という一介の教師である。

 教師を志したのは高校生時分の頃、担任教師であった男性に「お前は俺の後継ぎになるやもしれんな」なんて軽口を真に受けたことに起因する。そこに深い意味やら珠玉のエピソードなぞはない。ないからこそ私は思う、もうちょっと深く考えてから決断するべきであったと。誤解無きように述べておくが、私は教師という職務に誇りを持っているし、そこに後悔はない。後悔はないが、人を教え導くということが、これほどまでに苦難を伴う行為であるとは予想しなかったという、見通しの甘さがあったことは否めない。

 まさか私が生徒達に対して恋愛不要論を説く日がくるとは、当時の私には考えられないことであろう。

 ひとえにそれは、生徒達に私のような惨めな思いを味わっては欲しくないという気持ちから始まった話であったのだが、結果的には私が思想的に暴走する結末となった。

 私だって人間である、ときには落ち込むことだってある。

 学生時代に延々と繰り返し続けた自己分析という徒労によって、私は落ち込んだ際には、無用な程に、物事に対し気真面目に取りかかろうとする気質があることは分かっていた。今回はそのことが原因となった次第である。

 これではいかんなと思いつつ、私は職員室のデスクの上で書類仕事に没頭していた。

 運動場には野球部が大きな掛け声とともに駆け回る姿をとらえつつ、遠くからは吹奏楽部の金管楽器の音色が響いてくる。変哲のない放課後の一幕であった。私が顧問を受け持つ部活動はつきっきりの監督が必要なものではなく、そのおかげで私は職員室にて職務をまっとうできる。その代わりのように、生徒達から雑多な質問や生活相談を受けることは多々あるのだが、今日という日にはそれもなく、淡々と時だけが進んでいく。

 やがて下校時刻が近づいて部活動の音もなくなり、生徒らの気配がなくなってきた頃、私は立ちあがった。


「一服ですか? ――って安田先生は吸いませんでしたね」

「ええ、ちょっとコーヒーでもと」


 近くに座る年配の同僚教師に、なにとはなしに言づけて私は渡り廊下へと向かう。暗い校内の中、そこには飲料を売る自動販売機らが並べられていた。その内の一つに硬貨を投入すると、「こんばんは、おつかれさま」と挨拶をされる。

 特筆すべきことはない。

 自動販売機が言葉を発するのは、広く一般的とは言えないものの、おかしなことではない。一部のそれが開発者の戯れのように音声案内をすることは、現代人であれば違和感なく受けいれる事柄であろう。開発者は何を思ってこんな機能をつけようと思ったのかという興味心があるのみだ。

 私は無言で商品を選ぼうと指を掲げる。だがその動きを止めてしまった。馴染みの缶コーヒーの姿が見えないのである。どうやら商品入れ替えの憂き目にあってしまったようである。

 それもまあ仕方ないことだ。

 売れ行きが悪ければ、業者としては売れる商品を仕入れるのは当然の話だ。ここは学校内であるからして、必然に消費されるのは甘い飲料であることだろう。目当ての商品が近隣のどこそこにあるのかは把握していたが、わざわざ校外へと足を運ぶ気にはならず、私は代わりに陳列されている缶のおしるこに狙いを定めた。


「寅ちゃん、さよなら」


 すると慌てた声音とともに、横を駆け抜けていく人影があった。それと同時に、私の背中にジンとした痛みが拡がる。どうやらすり抜けざまに、はたかれたようである。


「こら猿渡、落ち着いて帰らんか」


 みるみるうちに小さくなっていく女子生徒の背中に注意するも、彼女は取り合わずに校外へと駆け去っていった。いったい何だったのか。高校生にもなって仕様もない注意をさせる彼女を不可思議に感じるも、さりとて問題はなかろうと放置することにする。


「なんだ、おしるこではないではないか」


 叩かれた際に違う商品を購入してしまったのか、はたまた業者が入れ間違えたか、受け取り口から取れ出たのは缶のココアであった。すると「やったー大当たりー」という調子の狂うかけ声が自動販売機から発せられる。どうやらもう一本、無料で購入できるようであった。これはついていると騙されそうになるも、即座に思い直す。そもそも、飲料が二本あろうとも飲みきれないのだ。そう考えると、嬉しさは半減する。しかし折角の幸運を棒に振るのも気がひけて、もう一本、ココアを購入しておいた。

 なにやら自動販売機が「今日のあなたの運勢は――」と語り続けているが、私はその場を離れることにした。最後まで聞く気にはならない、そこまでの暇人ではない。それにしてもよくしゃべる自販機だなと思うばかりである。

 戻る最中、渡り廊下から校舎内に入ろうかとした際に、一人の生徒とすれ違う。我がクラスの生徒で、名を犬塚大地という。


「寅ちゃん」

「おお犬塚か、丁度よい。そこで当りが出たのでな、一本もらってはくれんか」

「別にいい」


 ココアを掲げて提案するも頑なに拒否されてしまう。その妙によそよそしい反応を怪訝に思い「何かあったのか?」と尋ねた。しかし返答は「何でもない」であった。


「そうか、それならいいが、何か問題を抱えているのであれば必ず相談に来い」

「……わかった」


 そうして犬塚とはそこで別れた。犬塚といい猿渡といい、思春期の考えることは分からなくなる時がようようある。だからこそ教師はムツカシイ。

 私は職員室へと戻ると、年配の同僚にココアを譲ろうと声かけるも「私は甘いものはちょっと」と断られた。おしるこよりはココアの方がウケもいいかと思ったのであるが、案外と人気ないモノである。これは困ったと辺りを見まわすと同僚の体育教師と目が合った。彼のもとへとよってココアをさしだす。


「サンキュです――」

「なにか?」


 礼を言われた後に、もの言いたげな視線を感じて、私は尋ねた。問われた体育教師は「いえ、大したことではないのですが」と前置きをしてから述べた。


「安田先生が奇行に走らずに、真面目に仕事しているというのは――なんとも調子が狂うなと思いまして」

「失敬な。私はいつでも真面目に生きております」

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