男女の友情⑦

 唐突に何の話だと思われるかもしれないが、缶コーヒーについて語らせていただく。

 全国、津々浦々に設置されつくしている自動販売機に、常備されているといっても過言ではない飲料である。その味は薄い。レギュラーコーヒーとは別物だと思っていただいて結構だ。かくいう私も愛飲者の一人である。だが、そこまでのこだわりなどなく、違いを気にする男でもない。ただ一つの問題を解消していれば、何だって美味しくいただけるだろう。そのただ一つの問題とは、香料であった。

 前述したように缶コーヒーというものは薄い。特に焙煎された豆の香りなぞはしないに等しい。それを補うために多くのメーカーは香料という原材料を投入する。すると不思議なことに缶コーヒーはまるで炒りたてのような豆のアロマを発するのである。私はこれが本当に苦手だった。こう評すると、より良い缶コーヒーを追及している人々に申し訳ない気持ちになってしまう。なってしまうのだが、述べる。不味い。これはもう仕方のないところであった。私の体質が異物であると認識しているとしか言いようがないのだ。

 きっと私のような人間は一定数いるのであろう。数あるメーカーの中には、香料無添加を謳った商品を販売しているものがある。これが、ありがたかった。おかげで私は仕事に行き詰ったとき、一息入れたいときに缶コーヒーを常飲できる。そして私の職場たる学校内には、渡り廊下において自動販売機が設置されていた。その中で唯一の香料無添加の缶コーヒーがある。その名を「BLACK RX」という。

 さて、どうしてこんなにも缶コーヒーについて語っているのか、その理由を述べる。

 下校時刻をとうに過ぎた学校内、職員室での採点作業に一区切りをつけて、私は渡り廊下へと向かった。自動販売機に硬貨を投入した私は、そこで一つの事実に気づく。


「嘘だと言ってくれ……」


 私は愕然とした面持ちになる。「RX」がないのだ。

 どうやら商品入れ替えという憂き目にあったらしい。それが存在したはずの空間には、是も非もない、缶の「おしるこ」が鎮座ましましていた。これは由々しき事態である。今更ながらに愛飲物の変更を求められても困るというものだ。この学校に赴任して以来、私は常に「RX」を片手に業務を行っていたのだ。いわば相棒である。この唐突で味気のない別離は、到底に受け入れきれるものではなかった。

 その場で立ちつくしていたならば「こんばんは、おつかれさま」と挨拶をされる。どうやら目前の自動販売機から挨拶をされたらしい。私は「どうしてなのだ」と自販機氏に詰め寄りそうになるも、今一歩のところで堪えた。この人が悪いわけではない。この人だって苦渋の決断だったに違いないのだから。とかくこの世は世知辛い。

 しかして、いつまでも呆然とするわけにもいかず、私は次なる行動を模索する。結論として、近所の公園に向かうことにした。近隣において「RX」が販売されている場所は把握済みなのだ。

 私は校門をくぐりぬけて校外へと出た。

 外界は一段と冷え込んでおり、寒さに震える。しかし長時間に及ぶ採点作業にて、火照った脳髄には丁度良い。私は零点の答案という、実在したのかと感動すら覚える代物を作成した生徒について、どのような指導をしたものかと思考しながら路道を歩いていた。

 目的地である公園へと到着する。

 変哲もない公園だ。いっそ何もなさすぎると言える。あるものは狭い敷地と、一つの自動販売機、そしてその傍らに設置された少々古めかしいベンチのみである。一体、この公園で何ができるというのだろう。かろうじて小学生がキャッチボールくらいできるかとも思ったが、公園内の看板には玉遊び禁止と書かれている。


「しかし、お前は無口だな」

「うわ、自販機に話しかけてる」


 私が自動販売機に硬貨を投入しながらに語りかけると、返答があった。こいつは校内の自販機氏のようには喋らない。ごく普通の自動販売機である。語りかけたのは気まぐれであり他意はない。なので返事があるとは思わずに、私は驚いて目を丸くさせた。しかも私の言動に対して、齟齬のない返しを見せている。日夜において人工知能の研究、発展が進んでいることは理解していたが、それがまさか自動販売機のお喋り機能にまで及んでいたとは、恐れ入るばかりである。

 などと阿呆な想像をして満足する。

 私は自動販売機の裏手に回り、隠れて潜んでいるそいつに話しかけた。


「何をしとるんだ、お前は?」

「しまった」


 そこにいたのは猿渡であった。下校中だったのだろう、我が校の制服と指定鞄を着用したままである。現在はそこそこに遅い時間なのだ。不用心と言わざるを得ない。これは教師として注意せねばならぬと、口を開きかけて気づいた。猿渡の様子が尋常ではない。顔は真っ赤に紅潮しており、手足もよく見ると微かに震えている。


「何があった?」

「寅ちゃん、どうしよう」


 猿渡は私の質問に、たっぷりと時間をかけて答えた。


「告白……された」


 詳しく話を聞いてみる。

 彼女は下校間際に、件の気になる男子に呼び止められたのだという。その際に愛の告白を受けそうになったのだと。正確にはまだ告白されてはいないらしい。というのも気が動転してしまった猿渡はその場を有耶無耶にして逃げ出したからだ。そして公園のベンチに一人、座り呆けていたのだという。


「お前……相手は勇気を出しただろうに」

「それについては、はい。反省しております」


 猿渡にだって心の準備というものがあるだろう。殊更に責めたてるのは酷というものだから、これ以上は追及しないことにする。よって違う疑問を尋ねた。


「それがどうして、自販機の裏なんぞにいるのだ?」

「だって誰か来たって思って、咄嗟に隠れたら、寅ちゃんだったし」


 咎めるようにして猿渡が言う。そして再度、先と同じ質問をしてきた。


「どうすればいいかな?」

「それを私が決めてしまっていいのか?」

「……駄目だけど」


 分かってはいるようである。ことはもう、他人に意見を求める段階ではない。猿渡が真摯に己と向き合って、答えを見つけなければ意味がない。


「ふむ、私が決めることはできんが、一つ思い出した出来事がある。それを語ることにしようか」

「どんな?」


 それは私の大学生時代の話であった。

 愛の告白をされた後輩女子が悩んでいた。

 猿渡の事情とは異なり、家庭事情に三角関係など、少々複雑で込み入った事情が絡んでいたが、彼女が猿渡のように男に応えるべきか否か、苦悩していたことは同様である。彼女は慕っていた先輩女子に「自分は如何するべきか?」と尋ねたのだ。


「それで何て答えられたの?」

「張り手されていたな」

「は?」

「ビンタされていた。『女っぷりが悪い』とな」


 上手く伝わらなかったので言い直した。それでもなお、猿渡は理解が及ばないといった顔をしている。それも仕方ないであろう。話している私でさえ理解していないのだから。

 察しの良い方なら、お気づきかと思う。その張り手をかましたヴァイオレンスな女とは鈴木のことである。傍から現場を見ていた私は肝を冷やしたのであるが、後輩女子はその一撃により目から鱗がおちたようであった。そのままスッキリとした顔で「返事をしてくる」と駆け出して行ったのである。まるでプロレス団体のレジェンドのような喝の入れ方であった。


「言っておくが、私は張り手はせんぞ。暴力沙汰で懲戒になぞなりたくはない」

「そりゃ私だって嫌だけど」


 答える猿渡は、納得できていないと顔にありありと書いていた。私はそんな彼女に苦笑すると、一番伝えたかったことを話す。


「その後輩と話す機会があってな。当時のことを聞いてみたのだ。すると言っていたぞ『あのとき自分で意志を示せて良かった。そうでなければ、きっと流された自分を許せていない』とな。まあ、彼女らは相当に変わった部類の人間だから参考にはならんかもしらん。それでもそういう考えがあるのだという、一助になれば幸いだ」


 物事に流されて、自らが動かずにいることが悪いとは思わない。人生にはそういう時期だって必要だ。けれども、どんなに拒もうとも、自らの足で大地を踏みしめなければならないときが必ず来る。猿渡は「恋に恋する」ことを否定した。夢見る少女ではいたくないと。それならば彼女にとって、ふんばるべきは今なのだと、私は思う。


「私の友人が言うには『女は度胸』なんだと」


 私の言葉に、猿渡は黙って考え込み始める。

 決断を急ぐ必要はない。しかし、このまま何もせず、意志を示すことがない。それだけはしないで欲しかった。他ならぬ猿渡のためにも。


「寅ちゃんの後輩さんは、どうなったの?」

「どうもこうもない。つい先日に結婚式の招待状が届いたぞ」

「そっか」


 猿渡は安堵したかのように笑む。すると突然、何かに気づいたかのように顔を強張らせると、自動販売機の陰に引っ込んでしまった。私は何事かと振り返る。公園の外から近づいてくる人影が見えた。


「寅ちゃん」

「犬塚か」


 犬塚大地。私が担任を受け持つクラスの生徒の一人である。成績は優秀、部活動の実績も芳しい。我がクラスが誇る優等生であるが、少々ぶっきらぼうなきらいがある。だが根は真面目な好青年だ。

 彼は私の近くまで駆けると、息を荒げつつ尋ねてきた。


「猿渡を見なかった?」

「……いや、見てないな」


 咄嗟に場を読んで返答する。さすがに、このままホイと猿渡を自販機の裏から引っぱりだすのは不味かろう。それにしても驚いた。まさか猿渡の気になる彼というのが犬塚だとは予想していなかった。犬塚は表情が読めぬ男なので、そも恋愛ごとに興味があることさえ気づかなかった。


「わかった。それじゃあ」

「まてまて。少しだけ話をさせろ」


 私の返答を聞き、即座に転身しようとする犬塚を留める。そんな時間はないと渋っていたが、無理やりに公園のベンチへと腰を下ろさせた。


「じつはな、以前より猿渡に相談を受けていたのだ。『気になっている男がいる、自分の気持ちが分からない』とな」


 私がそう述べると犬塚は驚いた顔をしている。心なしか、自販機の裏からも咎めるような気配が感じられた。これで他の者に相談内容を語らないという約束を破ってしまった。よって猿渡とは絶交である。あとで「えんがちょ」をしなければなるまい。

 私は犬塚と幾つかやりとりを交わすと、彼に「この場で五分だけ待て。そのまま何もなければ今日のところはひきあげろ」と申しつけた。理由などは聞かれなかった。彼は頭の良い生徒であるから、何かしら事情を察したのであろう。もしかしたら自動販売機の裏にいる人物にさえ気づいているかもしれない。

 私は犬塚に私用の携帯番号を教えておく、何か問題があったのならばこれに連絡するように伝えた。生徒達の下校時における道草を助長しているのであるから、こればかりは譲れなかった。

 最後に自販機から購入したココアを二つ、犬塚に持たせてから公園を後にする。あとはすべて彼女次第である。去り際に「頑張れよ」と声をかけておいた。少しばかり声を張ったので、物陰の裏にもキチンと響いたことであろう。

 それからはもう振り返ることはない。私が公道に入ったあたりで誰かが会話するような気配を感じたが、それを確認するのは野暮というものである。

 ふと上空から白い輝きが舞い散ることに気づく。

 雪である。

 どうやら天は二人の少年少女の恋を応援しているようである。私はその幻想的な風景を堪能しつつ、校内へと戻り、職員室の自らのデスクへとおさまった。そして彼らの今後に思いを馳せると――


「やっていられるか」


 積みあがっていた書類の塔をぶちまけた。

 誤解無きように述べておくが、私は決して彼女らの恋が不服であるということはない。それどころか彼女らのような幼き恋が成就するというのならば、当然に応援するし、祝福も喜んでするだろう。

 それはそれとしてである。私は失恋中なのだ。

 やるせない気持ちを感じるのは致し方ないことだった。そして彼女らの行く末にばかり気を取られて、当初の目的であった「RX」を買いそびれたという事実も、私を気落ちさせる。私は一体、何をしにあの公園へと赴いたのであろう。

 そのように嘆いていたならば、同じく職員室に残っていた同僚の体育教師から胡乱な目を向けられる。よって私は大人しく、残留していた書類作業へと取りかかった。

 それから幾刻かしたころであろう。私の携帯電話が鳴り響いた。もしや何事か問題が発生したのかと慌てて機器を耳に当てると「あっ寅ちゃん」と何とも緊張感のない、間延びした女性の声が聞き取れた。


「猿渡か」

「うんそう」


 どうして猿渡が私の私用携帯の番号を知っているのかという疑問はある。だがきっと犬塚から教えてもらったのであろう。つまりはそういうことだ。


「あのさ。色々、ありがとね」

「そうか」

「うん」


 照れ臭そうな声音で猿渡が告げてきた。犬塚への返事をどうしたのかとは聞かないでおく。そもそも、結果なぞ傍から見ていたら明々白々であった。

 私はというと、先程、盛大にやっかんでいたので少々バツが悪い。よって気の利いたことは何も言えずに、押し黙ってしまう。このまま会話は途切れるものだとばかり思っていたが、そうはならなかった。

 私が黙っているのを言いことに、猿渡がしゃべくりたおすからである。

 それも主だっては、のろけ話ばかりだ。

 始めこそ大人しく聞いていた私であったが、とうとう我慢の限界を迎える。


「それで彼ってば――」

「えい」


 なんの脈絡もなく通話を切る。あいつは忘れているようだが、私と猿渡は現在において絶交中なのである。よってこの対応は、極めて正当である。反論は受け付けない。


「ええい決めた。もう怒った。金輪際、あいつとは口きいてやんない」


 まったくもって大人げないとは理解しているが、そうやって憎まれ口を叩かないとやっていけない心持ちなのである。ここらで一つ、我が生徒らには拗ねた大人というのが如何に面倒かということを、学んでもらうのもよろしかろう。

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