社会の窓から始まる恋⑬
私の呼びかけが響いた広場には、ザワザワとした喧騒と困惑に満ちていた。
誰もが突然の展開に、ついて来れていない。
「ちょっと寅ちゃんっ?」
「案ずるな案ずるな。大丈夫だ、あいつを信じろ」
「あいつって、誰のこと」
「わかってるくせに、よく言う」
「うっ」
猿渡は、私の指摘に言葉を詰まらせた。チラチラと目的の人物がいるであろう方向へと視線を送っている。私も猿渡に倣い、そちらへと体を向ける。見渡してみるも、うまく見つけ出すことができなかった。人が多すぎる。
そのまま俯瞰していると、ふと一人の男と目が合った。群衆の中の、見知らぬ一人だ。
その男は私と視線を交わすと、まず仰天したように目を開いた。続いて勘違いを疑うようにキョロキョロと周囲を振り返り、最後に「もしかして私ですか?」と言いたげに自らを指す。
違う、貴様ではない。
否定の動作をとる私であったが、相手は「まいったね、どうも」とでも言うように照れ臭そうにしている。頼むからこちらをきちんと見てくれ。
慌てた私は、もそもそと大仰にジェスチャーをとる。
すると、なんということか。勘違いをする野郎どもが増えた。
私の動作を見て、何をどう思ったのだろう、「ひょっとすると、自分こそが『運命の人』かもしれん」と言わんばかりの雰囲気をまとうものが一人、二人と増えていく。
「だから貴様らではないと言っておろうにっ」
ますます慌てた私はそう叫ぶも、すでに焼け石に水である。勘違いをした野郎どもの目は爛々と輝き、決意に満ち満ちている。そんな彼らをいったい誰が止められる。
「寅ちゃん、何をしてくれてんのさ」
「想定外だ。これだから馬鹿者というのは度し難い」
「誰が焚きつけたんでしょう。あの人たち目が怖いんだけど」
「うむ、素直にすまん」
猿渡と現状から逃避するような会話をしていると、私と最初に目が合った男が一歩、その足を前に進ませた。すると横合いから妨害するように別の男が身を挺する。するとまた別の男が肩をつかんで引き戻し。そして今度はまた別の男が足を引っ張り転倒させる。
気がつくと、目の前には互いを牽制し合い、ウゴウゴと足の引っ張り合いをする悲しき野郎どもの一団が形成されていた。
なんというか、醜い。
私はふと芥川の名作小説を思い出す。『蜘蛛の糸』を垂らされたお釈迦様の立場をおもう。
この光景を微笑みをもってご覧になられたのであれば、お釈迦様とはなんとも素晴らしい性格をお持ちだと言わざるを得ない。試しに「愚か者どもめ、もっと争うがいい」とつぶやいてみたが、猿渡の非難するような視線を受けて、ふざけるのはそこまでにしておいた。
「どうしよう、これ」
「いよいよになったら、逃げろ。っと、ようやくカンダタのお出ましだ」
「カン……? なにそれって──あ」
私の言葉に猿渡も気づいたようである。
わちゃわちゃもみくちゃと、血で血を洗うならぬ、恥をもって恥を制している馬鹿者たちの狂騒の中に一人、見知った顔を見つけたからだ。
彼は集団の中央辺りにて、巨漢の男達が折り重なるように抜け駆け者をプレスしているのに巻き込まれていた。どうにかこうにか抜け出したものの、その後も馬鹿者たちの妨害にあい、思うように前へと進めずにいる。
その男の名は犬塚大地という、私が担任するクラスにおける優等生であった。
彼は足をつかまれ、巨漢に潰され、上着を剥ぎ取られようともなお挫けずに、こちらへと歩み寄ろうとしてくる。その懸命な姿には、確かに胸を打たれるものがあった。
「ほれ、何か声をかけてやれ」
「へ、私がっ?」
「お前以外に誰がやるという。糸だけ垂らして後は放置なんて寂しいことはしてやるな。お前が望むものはお前の手で手に入れろ。待っていれば相手から来てくれるなんて考えるのは、それこそ夢見る少女だ。『恋に恋する』お年頃ではないと証明してみせろ」
「意味わからないんだけど、寅ちゃん」
「確かに私も言っていて、何がなにやらだ」
「けど、なんでかなぁ……変なところにズシンときた」
猿渡は「わかったよ、やってやろうじゃん」と前に出る。
「犬塚君、頑張ってっ」
猿渡が声を張り上げるも、それは野郎どもの狂騒にかき消されてしまう。精々、近くにいる数人が訝しげにこちらを振り返る程度で終わった。婦女子の肺活量ではこれぐらいが限界かと思い、手助けをすることにする。拡声器が確か、辰村嬢が使用していたものがあったと考えたところで「……スウ」と猿渡がこちらにも分かる程に大きく、それは大きく息を吸い込む。
「大地っガンバれっ──‼︎」
大気がビリビリと震えたかと錯覚するほどの大声が放たれた。
そして訪れたのは、一瞬の静寂である。
広場の誰もが、一人の少女へと注目したのだ。
やがて広場の騒がしさが戻る中で、悲しき野郎どもの一団は動きを止めたままであった。それも仕方ないであろう。もしかしたら「運命の人」かもしれぬと夢想した少女から発せられた、意想だにしない男の名前。あの一団の中に「大地」という名がどれほど含まれているかなど、推して知るべしというものだ。
その隙をついて、犬塚が私と猿渡の前へとやってくる。
ぜえぜえと荒く息を吐き、呼吸を整えている。
一時はどうなることかと冷や汗をかいたが、どうやら事態は落ち着くべきところにおさまってくれたようだと安堵する。
「寅ちゃん、後でしこたま文句言いに行ってやるから」
「それはいいが私に関わるよりもまず、大事なことがあるんじゃないか?」
「いい。どうせしばらくは寅ちゃんに構ってる暇ないから、今のうちに言っておく」
「そりゃまあ、そうだな」
犬塚との軽口に応じる。
彼は徐々に息を落ち着かせると、顔をあげる。
その顔はなんとも凛々しく、格好がついている。まったくもって羨ましい。
「特にお前にはかける言葉はないな、さっさと決めてこい」
「わかった」
犬塚は静かに頷くと、猿渡の前へとおもむき立ち止まる。
そこはくしくも「あの日」の象徴、巨大なもみの木の前であった。
繰り返す時間の中で、彼らの恋の成就の際は必ず白い雪が舞い散ったものだが、今日という快晴の日には望めそうもない。しかしその代わりとでもいうように、幻想的なイルミネーションの光が彼らを包み込んでいる。
広場の誰もが注目している。
そんな異様な雰囲気の中、犬塚が言った。
「猿渡──奈海さん。誰よりも、世界中の誰よりもあなたが好きです」
「はいっ。私もです」
猿渡が応えると、ドッと広場が沸いた。
社会の窓から始まる恋 久保良文 @k-yoshihumi
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