社会の窓から始まる恋
久保良文
恋する馬鹿者
恋におちる
恋愛というものは、屋外灯に群がる虫たちの光景に似ている。
私は電車に揺られながらにそんなことを考えた。
今の発言を聞いて、不快に思った諸兄姉がいるのならば、どうか許してもらいたい。私こそは、深夜の美しい電飾へとふらふらと招きよせられ、電気柵にてそれは儚く燃え尽きた、虫の屍。今となっては真白な灰のカスである身なのだからして。
そんな馬鹿みたいな妄想をしながら息を吐く。
元来、男性という悲しい生き物は、ふらふらふらふらと、光に吸い寄せられる生き物なのである。例えその先に、高圧電流や燃え盛る火炎が待ち構えていようが、性質なのだから仕方がない。何も考えずに飛び込んでいく。何故なのか。答えは一つ。
そこに光があるからさ。
私の呟きが聞こえたのだろうか、隣に座っていた女子大生らしき女性がそそくさと席を離れていってしまった。むなしい。しばらくは川底の泥のように沈み込んでいた。
この世の中には光があふれている。その数はざっと全人類の半分だ。そのすべてにおいて蛾の如く、走光性の赴くままに漂っていてはいけないということぐらい私にもわかる。かといって蛆の如く、一切の光を嫌って地中へと潜っていては枯れはてる。要は、自分にとっての一番の光を、見つけなければならない。私にとって一番の光とはなにか、それを理解しなければならない。
強すぎる光はだめだ。私は残念ながら、それを受け止めることができる強い人間でも、照らされている恩恵を無視できる厚顔でもない。きっと光の強さに私が目を逸らしてしまうだろう。素朴な光量が良い。ぼんやりと暖かみを感じるぐらいの、かといって足元が暗くない程度だとなおよい。
ではそんな人がいたものか。私は濁りはてた眼で、電車内を見まわした。
色とりどりの光があったが、私が運命的な衝動を覚える者はいなかった。
例えば、電車内の野郎どもの注目を浴びている一人の女性。あの人は太陽だ。眩しいくらいに魅力的で、そしてどんなに羽ばたこうとも届きやしない。ジッと焦がれているくらいが丁度よい。
対して、私の対面に座る彼女はどうだろう。しっかりと持っている文庫本で顔を隠してしまっている。その様は、私との関りを一切遮断しているように見えて、少し不快感を覚えてしまった。暖かな光など感じられようはずもない。さしずめ新月といったところだ。
そんな風にぼんやりと思考の渦にもまれていたところ、一人の幼子が私のもとへとやってきた。私のことをジッと凝視している。怪訝に思い、その子に声をかけようとしたのだが、すぐさまに母親らしき女性がやってきてその子を連れ去ってしまった。それは咄嗟の出来事で、私は口を開きかけた間抜けな様子で動きを止めてしまった。
何だったのだろうかと、私は首を傾げる。
そして気づいたのだが、どうやら私は電車内で注目を集めているようだった。独特の雰囲気だ。周囲の乗客がジッとこちらの様子を窺っている。しかし私がそれに応えようと顔を向けると皆一様にサッと顔を背けてしまう。しかし理由が分からない。
分からないながらも電車は進む。
乗り込んでくる新しい乗客たちはギョッとした顔で私を見ると、即座に目を背ける。逆に降りていく者たちは、どこかほっと安堵したような顔を見せて去っていく。これは如何なものだろうか。せめて理由を教えてもらいたい。訳も分からずに、まるで逃げ出した動物園の猿を見つけたかのような視線を受けるのは、いくら何でも耐えがたい。そう思いながら、周囲の様子から何か情報をつかめないかと首をまわしていたならば、駅に到着する。
先ほど見た太陽の女性が電車を降りようと歩き出した。
彼女は忙しなく視線をまわしている私と目が合うと、さも可笑しそうに笑った。その笑顔に見惚れてしまうものの、それ以上、どうということもない。彼女は何も言わずに去っていった。謎が解けるわけでもない。どころか今のやりとりで彼女に向かっていた視線がまるごと私に向かったような気配すらある。
いったいなんなのだ。
私はとうとう耐え切れなくなり、そう叫びだしそうになった。
しかし、ふと、目前に人の顔があることに気づいた。
みると対面に座っていたはずの新月の女性がこちらによってきている。相変わらず文庫本を構えてはいたが、半分ばかりの顔が確認できた。
その顔は真っ赤に染まり、目線は気恥ずかしそうに、定まらない。束の間、モジモジと煮え切らない態度をとったが、やがて意を決したように私の目を見てはっきりとこう言った。
「チャック開いてますよ」
もし私の言葉を聞いている諸兄姉がいるのならば、覚えていて欲しい。
社会の窓が開放されていることを指摘されて始まる恋だってある。
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