恋せぬ賢者⑩

 宴もたけなわとなった頃合いにて、私は舞台へとあがった。

 酔っ払いたちの好奇の視線を一身に受けるが、不思議と緊張することもない。かつて学生時代に「何かやれ」と壇上へと追い上げられたこともあったが、あのときのように慌てふためくこともない。どうしてだろうかと自問するも答えはすぐに浮かびあがる。

 披露するに足るものがある。

 ただその一つが、これほどまでに心強いとは望外である。

 とはいっても、師匠ほどの技を求められているのだとしたら、そこは勘弁してもらいたい。さすがに素人の付け焼き刃が年季の入った本物を超えることはない。

 師匠である卯野善之助氏はパントマイムとタップダンスの達人であった。

 彼が踊れば小気味よく軽快なステップは音楽となり、彼が演じればそこは物語の舞台へと早変わりする。立派なカイゼル髭と紳士服という風貌も相まって、まるで往年の無声映画を目の当たりにしている気分になった。躍動すれば往来の人々すら足を止めて観客と成す、彼こそは稀代の怪人「ラブラビット」その人である。

 私はそれに魅せられたのだ。

 率先して学習するよりも上達への近道はない。普段の生活の許す限りには、技量の向上に努めた。その甲斐あってか「宴会芸としては見られる程度でしょう」というお墨付きを戴けたのだ。

 とはいえ、天下の往来ですら舞台へと変えてしまう師匠とは違って、私の技量では舞台装置によって役者にしてもらわなければ立ちいかない。よって登壇の挨拶もほどほどに、私は音楽を再生させた。

 曲名は「雨に唄えば」という。

 知っている者も多いだろう。

 私はタップダンスと聞いて、真っ先にこの曲を希望した。

 穏やかでそして愉快な音楽が流れる中で、巧みな足さばきを披露する。とはいえタップ音を実際に鳴らしてはおらず、音声に合わせたフリだ。技量の問題もさることながら、店舗の舞台をタップシューズの鉄板で痛めてしまうわけにもいかない。

 しかし酔客たちにとってそんなのは問題でなく、芸を肴に飲んで騒げれば良い。それは私にとっても望むところであった。私の所作で楽しんでくれる者がいる、それ以上のことなんてない。

 私は酔客たちの注目と掛け声を受けながらに踊り続ける。

 そしてついには舞台から飛び出して、観客たちの中へと踏み込んだ。

 向かうは奥の一席である。

 目的を忘れてはならない。

 今日の私は「二代目ラブラビット」である。恋するウサギの目的は、他人の恋の成就なのだから。

 マドンナ嬢と三人の男達の前で芸を披露する。彼らは最初こそ驚いて照れ臭そうにしていたが、そんなことはお構いなしと私が踊り狂うと、最後には咲くような笑顔を見せてくれた。大いに満足する。このことが彼らの良縁につながるかは、実のところわからない。しかし無駄にはならないだろうと信じるのみである。

 私は高揚した気分で座敷を巡る。ときにはふざけた様に鍋の具材を頂戴し、ときには興奮した酔客たちと共に踊る。皆々と一体となった感覚があった。

 店舗の天井を仰ぎつつ、私は思う。

 雨の中で歌うというのはこのような気分であろうか、と。

 おそらく違うだろう。

 この楽曲について、私にはちと思い入れがあった。世界的にも有名な楽曲であり、同名の映画において役者ジーン・ケリーが土砂降りの中を歌い踊る場面は、映画史に残る名シーンだ。それを見た私は思ったのである。

 ああ、恋をすると人は馬鹿になるのだな。

 何を隠そう、私の「馬鹿者だけが恋をする」という持論の発想源であるのだ。

 きっとその受け取り方は異端だと、異議を唱える方も大勢いることだろうが、感じとれてしまったものは仕方がない。

 恋をすれば雨の中においても厭わずに踊り続ける。

 きっと恋愛というものはそのようなモノに違いない。

 私は未だ、そこまでの境地には至ったことがない。

 舞台に戻りつつ、私はそのようなことを考える。そして、観客達からの拍手を受け一礼しながらに思った。


 ――いつか私も雨の中で歌うことができるだろうか。


 そのようにして、私の宴会芸は喝采の中、幕を下ろした。


「良かったですよ」


 座卓へと戻ると、辰村嬢からそのような評価をいただけた。牛尾氏と春子先生も同様に頷いてくれた。そのことに安堵しつつ、肝心の悩める青年達はどうなったのかと、隣の座卓へと目をむける。

 そこには映画史について語りあう、マドンナ嬢と三人の男たちの姿があった。どうやら彼らには映画という共通の趣味が存在したようで、私の芸をきっかけに論議に花が咲いてしまったようである。とうとうと淀みのない会話の様子は、宴会が始まった当初の沈黙を思い起こさせないものであった。


「あとは任せてしまったほうが良いでしょう」

「ええ、そうですね」


 牛尾氏の言葉に頷く。そうして我々は楽しそうに語り合う男女の姿を尻目に、美味い鍋と冷えた麦酒の味に没頭した。これまではやるべきことがあると抑えていたので、おおいに堪能するつもりだ。

 このあとの展開は、どうしようもなく当人達の問題である。

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