男女の友情⑤
再会した老紳士と乾杯を行い、改めて私が名乗ると彼は大仰に驚いた顔を見せる。
「家内も君と同じ職場にいるのだよ。養護教諭をしている」
「ということは、あなたは牛尾先生の――」
「牛尾団吉という、彼女は私の妻だ」
「なんと」
これは奇異なこともあったものだと驚いた。同じ日にこれだけ縁のあった御仁がまさか、同僚の伴侶であった。まるで誰かに引き合わされたかのような偶然である。養護教諭といえば、猿渡の相談の際に同席していた彼女だ。あの穏やかな気質と同様の雰囲気を、目前の御仁からも感じられる。ながく連れ添った夫婦は似てくるという話は本当であった。
牛尾氏は嬉しそうに笑い、酒を勧めてくる。それなので私達は再度、お互いの杯を乾かしにかかった。臓腑の奥からじんわりと伝ってくる酩酊感が心地好い。このような酒場の出会いは、楽しくてよいものだ。
「あの、すいません」
「なんでしょうか、お嬢さん」
「先程、懐かしいと仰っていましたが、それは――?」
私を越して話をかける千鳥さんの疑問に、牛尾氏は苦笑した。
「彼の話なのですが、私、その場にいたのですよ」
「そうなのですか?」
「ええ、聞いていたらなんとも感慨深く……つい声を」
私達は驚いて彼を見る。その注目に恥ずかしそうに身をよじっていた。
私が話した内容は、兎と亀、その邂逅の逸話だ。それは数ある与太話の中でも序章とも言える箇所である。それを目撃したということはつまり、彼は歴史の生き証人だということになる。それが誇らしいことなのかどうかは分かりかねる。
「詳しい話をお聞かせくださらないでしょうか?」
「構いませんよ」
そうして牛尾氏からの語り聞かせが始まった。
彼の口からは様々な逸話が出てくる。私も聞いたこともないような奇天烈な話や、その裏事情にわたり、事細かに。どれもが非常に興味深く、そして馬鹿馬鹿しい。まさに酒の肴としてうってつけな余興話であった。
「亀の団とはいったい何が目的で騒ぎを起こしているのでしょうか?」
「目的ですか?」
「ええ、こういってはなんですが、得する人なんていないではないですか」
「これは手厳しい」
その牛尾氏の事情通ぶりに、千鳥さんが踏み込んだ質問をする。その口調は落ち着いていながらも、咎めるような響きを感じさせられた。どうやら彼女は亀の団に対して否定的であるらしい。
「なんだい千鳥、真面目くさった物言いをして」
「そんなつもりはないけれど」
「私は好きだけどね、阿保らしくて」
鈴木はジョッキを呷りつつ意見を述べる。貴様はそうだろうなと思いはしたが、口にはしないでおく。だというのに奴は「お前も飲め」と私に飲酒を強要して絡んできた。
「目的というほど大層な理由はなかったかな」
「私もそう思いますね。あったとしても打算とは程遠い、衝動的な理由だと思いますよ」
「そうなのでしょうが……」
私と牛尾氏が私見を述べると、彼女は納得しかねるといった風に言葉を返す。彼女が何をそこまで気にしているのか、私は不思議に思う。それは牛尾氏も同様に感じたようである。
「ふむ、お嬢さんは思い悩んでいるご様子。よければ理由をお聞かせ願えますかな?」
「すいません。少々こみいった事情があるとしか、申し上げることができません」
「そうですか、これは失礼しました」
頑なな千鳥さんの様子に、何か知るところはないかと鈴木へ視線をむけたが、奴は黙って酒を飲むばかりだ。つまりは触れてやるなということだろう。しかし非常に気になる。
千鳥さんは再度、申し訳なさそうに謝罪をしようとするが、牛尾氏はそれを遮った。そして一つの質問をする。
「お嬢さん。もしかして恋をしておられませんか?」
甚だ失礼ながらも、私は思わずにはいられなかった。
何を言い出すのかこの爺は、と。
なんという質問であろうか、その意図を察することができない。ただあまりの唐突さに、私は口に含めていた麦酒を吹き出しそうになる。慌てて左隣を見るが、牛尾氏はふざけた様子もなく、真面目な顔をしていた。
「それは、どうして?」
「しがない老人のたんなる勘です。お嬢さんの雰囲気からピンときましてな。そこで提案があるのです。もうお察しのことと思いますが、私は兎と亀、その当事者の一人です。もっと詳細に話をすることもできますが――」
「是非お願いしたいです」
「わかりました。ただ、一つだけ条件が」
牛尾氏は少し言いにくそうにして言葉をつけ加える。
「もう一人、当事者を交えてから話をさせていただきたいのです。そして可能ならば、そいつにあなたの恋の話をしてやって欲しい」
「承知しました」
「ということは、貴女は恋をしているということで間違いない?」
「はい」
千鳥さんは答えるのに躊躇するも、はっきりと頷いた。
牛尾氏はそれを受けて嬉しそうに微笑む。
「ありがとう。いや、ヘンテコなお願いだというのは重々理解しておりますが、非常にありがたい。しかし貴女に想われている男性には嫉妬を覚えてしまいますな」
「とんでもない」
そうして牛尾氏と千鳥さんは、話をまとめあげてしまう。互いに納得したように笑みを浮かべ合っていた。
ふと千鳥さんと私の視線が合う。
すると彼女は照れくさそうに微笑んでから麦酒へと口付けた。その様子のあまりの可憐さに、私が惹きつけられたことは言うまでもない。言うまでもないが、それ以上に衝撃的な事実が私を苛む。
「何ということだ」
千鳥さんが恋をしているということは即ち、彼女には想い人がいるということだ。
つまり、私は失恋したのである。
私の短い春が終わった瞬間であった。
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