恋する馬鹿者⑥

 千鳥さんとのその後の交流については順調であることを、ここに記しておく。

 そうは言っても、互いに居合わせた日に近況報告のように世間話をするだけの間柄だ。彼女は相変わらず私の仕事について興味を示したが、所々で自らの私生活についても語ってくれた。曰く、彼女には好きな文庫本があり、この度その物語が映画化されること。曰く、ついに白いパンダが発見されたことに驚愕したということ等々である。

 私は当初こそ姿を見せてくれないのではないかと不安を抱いていたが、彼女は言葉を違えることもなく、例の時間にプラットホームに立ってくれていた。それだけでも私にとっては幸せの極致にあることは間違いない。しかしそれでも先があるのならばそこに至ってみたいと思うのは人の性である。

 私は今日こそはと意気こんで駅のホームに立っていた。


「――そのノッポの生徒が言うには、そいつの想い人なぞ知らないということで、私にもついぞ分からないのです」

「ふふ、やっぱり高校生にもなると青春していますね」

「ええ、私も彼らの今が最高のモノとなるように、努力しているつもりなのですが」

「やっぱり難しいですか」

「絶対に私には教えてやらないと拒否されますね」

「少しわかるような気がします」

「これは手厳しい」


 私が如何に生徒の心を開くのが難しいかということについて語ると彼女はくすくすと控えめに笑う。その様は、私に恍惚とした喜びを与えてくれる。

 ああ犬塚よ、感謝する。そして調子に乗ってお前の青春をダシにして会話する私を許せ。代わりにお前も私の恋愛模様を語るがよいだろう。老若男女の興味をひくこと間違いなしだ。しかし、さすがに生徒の事細かなプライベートを語りきるのは教師としての矜持が許さない。それなので多大にぼやかして当たり障りのない事柄までに話を留めることになる。

 するとそこで会話が一区切りつき、束の間の静寂が生まれた。

 だが互いに気まずい思いはしていなかったように感じられる。

 さて次は何の話をしようかと、問い合わせるように視線を交わす。その数舜の空気が私にとって、とても心地よいものに感じられた。


「一つ、提案があるのです」

「何でしょう?」

「デートをしませんか?」

「寅次郎さんは本当にはっきりとモノを言います」


 私が改めて千鳥さんに話しかけると、彼女は苦笑した。


「よく、がっつき過ぎだと言われます」

「私はいいと思います」

「ありがとう」


 千鳥さんは「少し待ってください」と言うと私の提案を考慮する。その時間は決して長くはなかったが、私はヤキモキしつつ返答を待った。


「今週の土曜日なんてどうですか?」

「ああ――その日は」


 彼女の言葉に私は喜びの声をあげそうになるも、その日は都合が悪いことを思い出す。私が顧問をする部活動が行われる日なのだ。それを伝えると彼女は気を落とさずに別の日を提案してくれる、しかしその日も都合が悪い。私の方からも「この日はどうです?」と彼女に問いかける、だが今度は彼女の方が「あ、会社の忘年会です」と先約があった。

 我々はそこで意固地になる。

 事こうなれば意地でも見つけ出してやるとばかりに、一日ずつ互いに問い合わせていく。すると直近においては、該当する日が一つだけ存在することに気づいた。

 その日は世間一般的に有名な日付であった。

 多くのイベントが世界中の企業や家庭、公私を問わずに行われる。元々は渡来の神様の生誕を祝う祭日のはずである。だが日本においては元来の意義は忘れ去られており形骸化している。それでも誰もが特別な日だと認識しているが故に、いたる所で乱痴気騒ぎが勃発し風紀は乱れに乱れるばかりだ。

 私においても長らく「名前をいってはいけないあの日」として定義し、鉄のような自制心と菩薩様のような許容の心を世間に注ぎ、そして些かのヤッカミをもって慎ましくも厳かに過ごす一日であった。

 そう「あの日」なのである。


「これは――」

「どうしましょうか――」


 私と千鳥さんは互いに確認し合うように視線を合わせる。当たり前だ。意識しない方がおかしい。不動心を心得る私とてそこまでの冷静さを保つのは難しかった。


「わ私は大丈夫ですよ」


 千鳥さんがそう言ってくれる。その声は微かに震えていて、よく見ると耳が少し赤いことに気づいた。その彼女の様を確認すると私は弾かれるようにして口を開いた。


「是非にお願いいたします」


 このような可憐な女性とこの日を迎えられるなど、この機を逃せば二度と私に訪れることはないだろう。私は決して彼女を不満に思わせるような一日にしないことを心に誓った。

 そのまま二人して妙に浮足立った心持ちで会話を続けていると、ついに電車がやってくる。千鳥さんはそそくさと乗り込んでいくものだから、私はウィットに富んだ挨拶をする間もなく、ただ手を小さく振るのみだ。決して私も照れ臭くて敵わないわけではない。

 千鳥さんが車窓の中から同じように手をあげるのを眺めつつ、電車は行く。

 私は一人残されたホームにて落ち着こうとして深く息をついた。

 今日こそは状況を進展させると意気こんではいたものの、結果として予想よりも進み過ぎてしまった感覚がある。そのこと自体は喜ばしい。だがそれ故に、私の両肩には使命という名の漬物石が乗っかっている。

 失敗は許されない。

 このデートを成功させることが出来なければ、私は未来永劫に渡り、自らの寝所の上でバタバタと後悔と羞恥に苛まれることになるであろう。そしてそれは「あの日」が巡りくる度に起こり得ると考えられる。ただでさえ毎年のように、涅槃する釈迦の如くなっているというのに、この上さらに阿波踊りまでしなければならなくなると、長年愛用する煎餅布団に穴が開いてしまう可能性があった。

 繰り返す、失敗は許されない。

 だがしかし、今日ばかりは好機をつかみとることが出来たのを喜ぶことにする。

 さしあたって、この感謝の念を何処ぞかに伝えることにした。いつもであれば見上げれば存在する天に向かって拝むものであるが、今回ばかりは「あの日」である。こう念じるのが妥当であろう。

 おう、じーざす。

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