恋する馬鹿者⑦

 下校時刻となり校舎の中から若者の活気が失せていく。

 昨今の若者は元気がないと取沙汰されることもあるが、それでも彼らには特有の躍動というものがあった。こうしてシンと静まった気配を感じると改めてそれに気づかされる。彼らが健やかに学びを享受できる場所、それこそが学校というものである。そのために教師という職業は医師とならんで聖職という表現をされることがある。私はその表現を聞くたびにむず痒くもあり、そして誇らしい気持ちにもなるのだ。

 そんな静まり返った校舎の中、私は職員室のデスクの上で採点作業に追われていた。


「ええい、あの馬鹿者め、こんちくしょう」


 とある生徒の答案用紙に向かって私は声を張り上げる。その紙にはでかでかと一筆「分かりません」と記されていた。いっそ清々しいまでの降伏宣言である。聖職者にあるまじき暴言を吐いてしまったが、私達とて百余名に及ぶ回答をひたすら処理していると精神が荒れはてるのである、どうかご理解をいただきたい。


「せめて努力した跡ぐらい見せてくれれば、この気持ちが収まらんこともないが」


 この答案を提出したのは学内でも有名なお調子者だ。きっと、このような回答を用意したら洒落になると思っての行為であろう。こいつには後々、教育的指導というものをみっちりと施す必要がある。

 私は気持ちを静めるために、書類の束から手を離して、ダランと椅子によりかかる体勢をとった。天井の染みをぼんやりと眺めつつ、取りとめもない思考に没頭する。

 数学教師をしているとよく言われることがある、「数学は自分の将来になんら必要がない」という文言だ。それは数学教師としての私の存在意義を揺るがす言葉であるのだが、実際にその通りかもしれない。日常生活において微分積分や三角関数を状態的に活用している人物は多数ではないだろう、まさにサインコサイン何になるである。

 では「将来に必要なこと」とは一体何であるのか?

 それが明確に語れる生徒であるのなら、私は教師としてその背中を押してやる所存だ。けれど大方は該当しない者ばかりである。ただ漠然と、面倒臭い、興味がないといった理由だけで、将来必要になるかもしれない貴重たる知識の習得を拒んでいる。それは私から見て非常にもったいなく、出来得ることならば若者特有の柔らかい頭脳、その容量の一部を譲って欲しいところだ。私にはまだまだ学ぶべきことは多い。私こそは将来に必要なものが数学である男なのだ。

 つまり何が言いたいのかというと、生徒達には真面目に勉強して欲しい。

 ダラダラと現実逃避をして出てきた結論はただそれだけなのであった。


「コーヒーを買ってこよう」


 私は立ちあがると昇降口へと向かった。

 曇り空の下に出ると、校舎の外は閑散としており吹いてくる風も痛いくらいに冷たい。しかし、熱で火照った脳髄には丁度良い刺激である。幾許も歩かない距離にある渡り廊下には、多数の自動販売機が列になって設置されている。暗い校内の中に不自然な程の明かりを発する自動販売機達。その内の一つに硬貨を投入すると、「こんばんは、おつかれさま」と挨拶をされた。


「わかってくれるか?」


 私は人の優しさに触れて不覚にも涙しそうになる。だが私もいい大人だ、リップサービスを真に受けるわけにもいかない。世知辛い世の中だった。

 私が自販機氏にちょっとした愚痴をこぼしていると、遠くの方に二人の人物がいることに気づいた、校門の手前である。すでに下校時刻は過ぎているというのに、二人組の格好は制服だった。どうやら生徒がまだ残っていたらしい。

 それは男女の二人組であるようで、この距離からでは確証がないが深刻そうに話をしている。しばらくは特に動きもなく会話するのみであったが、唐突に女子生徒の方が男子生徒の前へと進み出て何事かを告げたかと思うと、そのまま校門の外へと去っていった。残された男子生徒はその場に立ちつくすのみである。

 私は頃合いを見てその場へと歩み寄っていった。


「追いかけなくて良いのか?」

「寅ちゃん」


 声をかけられて振り返る男子生徒、犬塚は情けない顔をしてこちらに応えた。


「いつから居たのさ」

「今しがただな。遠目にお前たちの姿が見えたのでな、話はまったく聞いていないぞ」


 事情を説明すると「そう」と一言のみ発し、犬塚は私から視線を外す。その向け先は女子生徒が去っていった校門の外へと注がれていた。


「お前の想い人は猿渡だったか」

「別に」


 犬塚が否定するかのように言う。しかしその様子から確信を得た。

 こいつは猿渡に恋をしているのだ。

 猿渡奈海。彼女もまた私が担任を受け持つクラスの生徒であった。明るく元気で、いつも多くの友人達との輪の中にいる。その社交的で善良な性格には担任である私も助けられる事は多い。優等生ではあるがそのつっけんどんな態度から少々他人との付き合い方に難がある犬塚にとって、憧れの対象になることは容易に想像がついた。


「もう一度聞いておくが、追いかけなくて良いのか?」

「なんでさ」

「そんな顔していたら誰だってそう問いかける」

「……迷惑だろ、そんなことされたら」

「それは猿渡に言われたのか?」

「別に。普通、そうでしょ」


 なんとも曖昧な発言をする犬塚に、私は大きく嘆息をついた。


「お前はなんというか、私と違って本当に頭がいいな」

「そりゃ寅ちゃんと比べれば」

「やかましい。ほれ」


 そこで私は犬塚にある物を二つ手渡した。犬塚も咄嗟のことに不意を突かれたのか、素直に受け取る。それは先程に自販機氏から購入した温かいココアであった。


「こんな遅い時間に女子生徒一人での下校は不安がある。お前が送っていけ、いいな」

「いや、だから――」

「担任命令だ。猿渡に迷惑がられたら全てを私のせいにしておけ、そうすりゃ、お前も傷つかないで済むぞ」


 渋る態度を見せる犬塚に、わざとらしく嫌味な言い方をする。これでも発破をかけたつもりだ。すると案の定、彼はムッと言葉を詰まらせた。


「私が学生だった頃なんかは、誰も彼も相手の都合なんか考えないで突っ走っていたぞ、かくいう私もそうした」

「それで寅ちゃんはどうなったのさ」

「ん、普通にゴメンナサイされたが」

「ダメじゃん」

「それでも尚、食い下がったら通報された。どうにも虫の居所が最悪だったらしい。後にも先にも警察のお世話になったのは、あの時のみだ。交番で事情を説明すると、その婦警さんがまたいい人でな。私の方に理解を示してくれたよ。そんなわけでその場で婦警さんに告白したのだが、フラれた。即答だった。まあ、若気の至りだ。それなので、お前もはっきりと断られたのなら素直に引き下がるのがよい。遺骨は拾ってやる」

「なんじゃそりゃ」


 私の返答に虚を突かれたのか、犬塚はそこで微かに笑みを見せる。それを皮切りに「そりゃ寅ちゃんらしいや」とひとしきり笑いこけた。私は憮然としながらもそれが収まるのを待つ。幸いにも犬塚はすぐに落ち着いた。それだけではなく、いつもの調子を取り戻したようにも感じられた。


「寅ちゃんはやっぱり馬鹿者だと思う。俺が知っている中で一番だ」

「担任に向かって馬鹿とはなんだ」


 苦笑する。私を貶めている訳ではないと理解するものの、随分な言い草だ。

 犬塚はそんな私に向かって、楽しそうに言ってきた。


「だから俺もちょっと馬鹿になってくる」

「おう、行ってこい」


 無事に猿渡を送り届けたのなら電話するように伝える。合わせて私用の携帯番号も教えておいた。少しばかり無粋かとも思ったが、私にも監督責任というものがある。生徒の下校時における道草を助長したのであるから、こればかりは譲れなかった。

 犬塚は結構な駆け足で校門の外へと飛び出ていった。

 それを眺めながら、私は職員室へと戻ることにする。その途中で空から白い輝きが舞い散ることに気づいた。

 雪である。

 時節として不思議はないが、なんとも都合の良い。どうやら天は二人の学生を応援しているようだ。私はそんな幻想的な冬空を堪能しつつ、校内を横断して自らのデスクへと座る。一息をつきながら、彼らの今後に思いを馳せた。

 そしてフッと笑みを浮かべると――


「しまった。どうしよう」


 項垂れるようにして机へと沈み込んだ。

 よくよく、よくよく考えると、とんでもないことをしたのではないか。その思いを拭えない。何故なら私の経験上、十中八九、犬塚はフラれるからだ。いや、犬塚は私とは違うのであるし、猿渡との関係も良好……なのであろうか。なにせ情報がないので、全ては推察するしかない。そんな中で純粋な青年の背中を押してしまったのである。

 無責任にも。

 それもこれも、まるで物語の一場面のようにも思えた二人の学生の恋に、私が浮かれてしまったことが原因である。言い訳をさせてもらえるのであれば、忙殺された頭脳が少々熱暴走を起こしていたのだ。そこに悩める青少年達がドラマを展開していると知ってしまったので、私はまるでその配役である熱血教師のように振舞ってしまった。

 嗚呼ロマンチシズムここに極まれり。

 答案書類の山を眺め、いつもの日常に浸っていく中で、私の頭脳は段々と冷静さを取り戻していく。

 私は頻りに自らの携帯電話を気にしていた。これに着信が入り、犬塚からの連絡は「駄目だった。さようなら」という不吉な言葉であったりはしないか、そんな後ろ向きな考えしか思い浮かばない。まったくもって落ち着かず、職員室をチョロチョロと徘徊していたならば同僚の体育教師から「邪魔くさい」と指摘されてしまった。反省して採点作業に戻るも、一向に進捗しない。

 そんな悶々とした時間を過ごすこと幾刻か、ついに携帯電話の着信音が鳴り響く。

 私は戦々恐々として、機器を耳に当てた。


『家まで送り届けた』

「おお、そうか。それで――」


 どうなったかとは聞きづらい。私が彼であったとしても、事が済んでから幾許もしない内に根掘り葉掘りと問い詰められたくはない。そんな風に言葉を詰まらせていると、犬塚の方から言葉を続けてきた。


『寅ちゃ……安田先生』

「なんだ急に」

『ありがとうございました』


 その声音は落ち着いているものの何処か誇らしげであり、それによって私は自分の想像が杞憂であったことを悟った。


「そうか。一応、お前が帰りついてからも連絡を入れろ。今度はメッセージでいい」

『分かった』


 そうして犬塚との通話を終了する。

 私は心底に安堵しつつも「そうかそうか」と呟きながら思考する。

 あの調子であるのならば、犬塚は成功したと見える。その程度がどれ位で、詳細な結果は分からない。そもそも、二人の仲にあった問題さえも知らない。

 それでも「馬鹿をやってくる」と言って駆けだした青年は勝利を掴み取ったのだ。

 それは自らの学生時代と比較すると、大勝利だと言える。


「そうなると、途端に妬ましいな」


 私は、自らの器の小ささを自覚しながらも呟かずにはいられなかった。

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