幕間

羊が来たりて聖夜に嗤う

「良い夜なわけがない」


 唐突な呼びかけに言葉を返す。

 その声音が思ったよりも邪険な響きであったことに自身でも驚いた。しかし改めるつもりもない。女性の方も「あら、ご挨拶」と気にした風もなかった。


「ところで何か御用なのでしょうか?」

「そんなに身構えないで頂戴。大丈夫、一つ聞きたいことがあっただけだから」


 私の警戒したような声音に気づくと、彼女はそれまでの妖艶な微笑みから一変、コロコロと無邪気に笑った。まったくもって蠱惑的で、私は更なる警戒心を抱いて彼女の言葉を待った。


「あなたは運命の出会いを信じるかしら?」

「そんなものはありません」


 自らの体験をもって否定する。

 得られるかもしれなかったソレは、既に私の手からすり抜けてしまっている。

 私のその言葉に、彼女は笑顔を深めると続けて質問してきた。


「ではあなたは運命を変えたい?」

「質問の意味が分かりかねます」

「いいからいいから」


 彼女は手をひらひらと蝶のように華麗に翻す。「直感でどうぞ」と言う彼女の楽しげな様子に圧されて、私は渋々と口を開いた。


「変えられるものであれば変えてしまいたい」

「そうかそうか」


 顎に手を添えて「ふむふむ」と頻りに頷く彼女はいつの間にやら、私の目の前までやってきている。私は不覚にもドキリと鼓動を跳ね上がらせてしまうも、続く彼女の表情を見てゾッと背筋を凍らせる。享楽的なその笑みは、人間離れしているほどに美しかった。


「いったい何を──」

「あなたの希望は承ったわ。早速、変えてしまいましょうか」


 彼女はカンラカンラと笑いながら私から離れていく。

 安堵の息をついた私は、困惑して彼女に尋ねた。


「何をすると言うのです?」

「賽を振る前に、その目を変えようという話よ」

「抽象的すぎて理解できません」

「やり直しましょう、過去に戻って」


 楽しげな彼女の言葉に閉口してしまう。

 奇想天外なその提案はフィクションの中だけの出来事であった。

 とてもではないが正気の言動ではない。


「そんなこと、できるはずがない」

「あら、どうしてそう思うのかしら?」

「どうもこうもない。常識としてそんなことはない」

「それは度量の狭いことで」


 私が否定しても彼女は意に介さない様子である。

 それどころか「アクマノヒトヤヲ〜」と、どこか調子外れた讃美歌を口ずさみながら、懐から何物かを取り出している始末だ。「シュハキマセリっと」と取り出されたのは赤くて光沢のある手玉、クリスマスツリーのオーナメントだった。きっとそこに飾られているのを拝借したのであろう。


「さて問題です。この玉を手放すとどうなるでしょう?」


 意図がわからない。

 私はただただ困惑してしまい返答に窮する。

 しかし彼女はニコニコと答えを待つ様子であり、私は仕方なく口を開いた。


「地面へと落下します」

「では答え合わせ」


 彼女の手からオーナメントが放られる。

 そのまま万有引力に則って足元へと落ちると思われた。

 しかし、その予想は実現しない。

 赤く光るその玉は、空に落ちていったのだ。

 まるで天辺に重力があるように、グングンと勢いをつけて空に吸い込まれていく。

 しまいには星のように小さくなり見えなくなった。


「空へと落下します」


 女性はニヤニヤと意地悪い笑みを浮かべて「常識なんてあてにならないでしょ?」と言う。

 私はというと不可思議な出来事に目を丸くしていた。そして筋ある理屈をつけようと考え込むことになる。どういった手品だと、どのようなカラクリが隠されているのかと、ひたすらに考え込んだ。しかし、ついに正解を見つけることは敵わなかった。


「まだ信じられないかしら?」

「当然です」

「いいわ、こうなったらダメオシしましょう」


 そう言って女性は「周りを見てご覧なさいな」と促してくる。

 それに従って周囲を確認すると、今度こそ私は驚愕に目を剥くことになった。


 ──時が止まっていた。


 その現象を表現するには、そう言葉にする他ない。

 誰も彼もが動きを止めている。

 それもただ動かないだけではない。

 誰もが呼吸をしていない、いや鼓動すらしていない。

 塵芥すらも空中にて止まっている。

 体にぬるりとした粘性の空気がまとわりついている感触。

 どうやら大気すら流動することを忘れている。

 何もかもが自然法則として不可能な状態で静止していた。

 なにかしら矛盾している。

 しかし、これに説明をつけられる理屈を私は持ち合わせていなかった。


「なんなのだ、これは──」

「見たままよ、さあ現実を受け入れましょう?」


 呆然とする私に追い討ちをかけるように女性が言う。

 その声が不気味なほどに澄んで聞こえてくる。

 雑音がないからだ。

 風切音すら聞こえない本当の静寂とは、私の心を凍てつかせるように圧迫してくる。

 自らの鼓動のみが、ただうるさく聞こえてくる。

 そんな静謐の世界の中で、動くモノは私と彼女の二人だけであった。

 ついに私は耐えきれなくなって畏怖の念をもって彼女に尋ねた。


「あなたはいったい、何者なのです?」

「そんなの知らないわ。興味もない」


 彼女は嗤う。

 ただ楽しそうに。


「そしてもちろん名前すらない。そうね、聖夜に合わせて言うならば『迷える羊』かしら。呼称がないのも不便でしょうから、気軽に『羊ちゃん』って呼んでくれたら嬉しいわ」

 

 そして態度を改めて私に語りかけてくる。


「あなたの願いを聞きましょうか。叶えてあげましょう、なんでも」

 

 その様子はさながら人を唆す誘惑者、そのモノであった。

 これに警戒しない者などいない。


「何が目的です?」

「私は愉快なモノを見せて欲しいだけ」

「どうしてそんなものを?」

「ずっと人の世を眺めているとね、たまに掻き乱したくなるのよ」

「それは物騒な話ですね」

「あら心外ね。これでも世のため人のため、随分と骨を折ってきたのよ、ちょっとぐらい気ままに振る舞ってもバチはあたらないわ。それで返答はいかがかしら?」

「私にはどうしても叶えてもらいたい願いなどありません」


 私が答えると「もう、煮え切らない人ね」と彼女は嘆息をつく。

 その姿すら艶やかであり、おちつかない気分になる。


「あなたの大事な千鳥ちゃんなら即座に行動したわよ、あなたのために」

 

 彼女のその独白にふと、ひっかかりを覚える。

 千鳥とはいったい誰のことであろうか。

 ここで知らない名前を出されたとしても、私の心の琴線に触れることない。

 そのはずだがどういうことか、私の鼓動がトクンと跳ねた。

 千鳥さん。

 その名前を反芻すると心がムズムズとしてくる。

 なにか腹の奥底に抑えがたい衝動のようなものを感じる。

 不思議に思っていると、はたと思いつく。

 あの名前も知らない女性。

 私が運命の人かもしれないと思い、そして痛ましくも目前にて消え失せてしまった彼女の名前こそが、その千鳥さんなのではないか。

 それは根拠もない推測である。

 だがそうに違いないと不思議な確信があった。

 そうなると、私の中の情動が渦巻いていくようにして膨れあがる。

 それに従うようにして口を開いた。


「もし──」

「なにかしら?」

「もしあなたの力を借りられるのなら、私は彼女を──千鳥さんと再会することは可能なのでしょうか?」

「もちろんよ」

 

 すると自らを羊と名乗った女性はワラウ。

 それは先程のような底知れない美しい嗤いとはまた違ったモノであった。

 ワクワクとした期待を隠しきれていない無邪気な表情。

 それはまるで太陽のような明るい笑顔であった。

 それを見た私は決心をする。

 不思議なもので、先ほどまでに彼女に対して感じていた不信感や警戒は氷解するように薄れている。それどころか、長い間ともに過ごしてきた友の様な親近感すらある。

 およそ屈託なく笑い合えば人類皆兄弟と感じてしまうのは、私の良いところであり悪いところでもある。

 ふむ。なんだか調子が戻ってきたような気もする。

 むしろ今までが不調であったのだ。

 私こそは単純明快を良しとする男である。

 物事をしかつめらしく複雑怪奇にしてからあたることなぞ性に合わない。

 師匠も言っていたではないか楽しむことこそ肝要であると。

 私の前には妖しくも魅力的な提案がぶらさげられている。

 時は得難くして失い易しとも言う。この話に一も二もなく飛びついてしまうのも、選択の一つとして考慮されてしかるべきである。

 ケセラセラ。

 私はそのように軽々しく、だがしかし、確かな覚悟をもって口を開いた。


「会って間もないどころか得体の知れないあなたに、このようなことを頼むのはなんだか妙な心持ちなのだが、不躾を承知でお願いします」

「いいわ言ってちょうだい。愉快なモノを見せてくれることを期待しているわ」


 そして言う。


「──やり直しを要求する」

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