恋する馬鹿者③

「というのが、私の昨日の成果である」

「寅ちゃん、頼むからやめて」


 翌日、私が教室の先頭にて結論を述べるなり、眼鏡の女子が懇願するように要求してきた。心なしかその眼は潤んでいるようにも見えた。その奥に隠れている感情は、嫉妬、だろうか。もしかしたら私は、自分が気づいていないだけで幼気な少女の心を誑かし、多分に傷つけていたのかもしれない。そうだとしたらなんと罪深い人間なのだろうか、私は。


「情けなくて情けなくて、涙が出てきた」

「ああはい」


 どうやら余計な杞憂だったらしい。


「ええー、いいじゃん面白いじゃん、もっとやってくれよ、寅ちゃん」

「バッカお前、相手がいることも忘れんなよ。迷惑だろうが寅ちゃんなんて」

「そうだよねー、ていうか既に通報されててもおかしくないんじゃ?」

「今の内に私達でしておこうか、よそ様に迷惑かける前に」

「ああわかって寅ちゃん。これもあなたを想う私たちの親心なのよ」

「お前たちが担任を敬う気持ちを持ち合わせていないことは、よく分かった」


 ノッポの男子が面白そうに囃し立てるとそれに追随するように教室中が騒がしくなる。私としては彼らに余興話を提供しているつもりなどないので不本意だ。一つには皆に報告しつつ私が気持ちを整理するために、一つには生徒達への情操教育の一環として話しているのである。私の体験を通して彼らが得られるモノもあるだろうと思っていたのだが、このような反応ばかりだと考えものである。私とて、赤裸々な話をしている自覚はあるのだ。


「それではホームルームを終了する。日直は後で日誌を届けに来い」


 私が号令をかけると待ってましたとばかりに「起立!」と大声が張り上がる。

 そのまま終礼を交わして放課後となった。

 私は職員室へと戻り、積みあがった諸々の書類作業へと従事する。

 終わる気配を見せない白い塔に悲鳴をあげそうになりながらも一枚一枚着実に処理していく、するといつの間にやら傍らに人が立っていることに気づいた。


「びっくりしたじゃないか」

「日誌、持ってきた」

「そうか、ありがとう」


 言葉が少なめな男子生徒から黒い冊子を受け取る。彼の名は犬塚大地という、私が担任を受け持つクラスの生徒であった。成績は上々、部活動の成績も芳しい、我がクラスが誇る優等生だ。ただ彼は己の気持ちを隠すようにして表情を崩さない。その愛嬌のないぶっきらぼうな態度は、なるほど思春期だなと、私を頷かせる。


「どうかしたか犬塚?」

「別に」

「そうか」


 犬塚はそのように答えつつも中々に退出することはない。その姿は話を切り出そうとしているようで、これは何かあるなと直感した。しかし、雰囲気から切迫した事態ではなかろうと判断する。なれば無理矢理に問いただすのは避けて口が開くのを待つ。話してくれなかったならば、しばらくの間、彼の動向を注意深く観察する必要がある。それは正直に言って御免こうむりたいので、早々にここで話してくれるとありがたい。


「寅ちゃんはさ、恥ずかしくないの?」

「何がだ」

「恋だの何だの」

「ああ――」


 社会通念上、大問題とされるイジメだのとキナ臭い話ではなかったことに安堵する。だがどうにも話題の方向性というものが掴めなかったので質問を返すことにした。


「どうした突然?」

「別に」

「私は生徒の疑問には答える教師でありたいと思っている。だからお前が何を考えているのか、教えてくれるとありがたい」

「そう思うんだったら、質問に答えてくれると嬉しいんだけど」

「それもそうか」


 まずは彼の問いに答えなければ話は先に進まないようである。そうは言っても単純な質問であるために悩む必要さえなく答える。


「恥ずかしいぞ」

「それなのになんで――するのさ」


 犬塚が言葉の途中に言いにくそうな挙動を見せた。私はそこでピンと思いついた。この若者は「なんで恋なんてするのさ」と尋ねたかったのではないか。彼は恋をすることを恥ずかしいと感じているようだ。

 しかし「なぜ恋をするのか」とは、これまたムツカシイ問題を提示されたものだ。そんなもの、その時々の立場や気分で答えは変わる。そしてその受け取り方さえも千差万別であるのだ。その中から適切な返答をしなければならない。

 よって私は悩める若者に対する一教師としての答えを示すことにした。


「恋はいいぞ、人の心を豊かにしてくれるからな」

「なんか嘘くさい」


 どうやらこの返答では彼の心には響くことはなかったようである。犬塚は未だ表情を変化させることなく、答えを待っている。それならばと、私は私としての意見を述べる。それは紛れもない私の本心であった。


「これは持論なのだが――馬鹿者だけが恋をする」

「なにそれ」

「まあ聞け。私は今回において運命の出会いというものを果たしたわけだが、どうだろう。お前はこれを運命の出会いだと思うか?」

「思わない」

「そうだろう。普通に考えて世界人口からたった一人だけ、70億分の1と出会えるなんて無理だ。宝くじに当たるよりも難しい。つまりは世の多くのカップル達は運命の人以外と逢瀬を楽しんでいる。理由は単なる人違いだ」

「また凄いこと言うね」

「これを阿呆と言わずになんと言う。だから賢い者たちは恋なんてしない。それが運命ではないと、特別ではないと知っているからだ。そうして一人で孤独に生きていく。ところで犬塚、お前はどちらになりたい。恋する馬鹿者か恋せぬ賢者か」

「寅ちゃんの話のことだけで言うなら、そりゃ馬鹿者だろうさ」

「そうだろうそうだろう」


 私は話が無事に望む着地点にたどり着いたことを安堵する。犬塚が素直な生徒で助かった。結構な暴論であるためにいくらでもケチのつけようがあることは理解している。しかし元より、私個人の偏見を述べただけであるので、とやかく文句を言われても知らんとしか言いようがない。だから最後まで好き勝手に言わせてもらった。


「恋をしたならそりゃ阿呆だ。踊る阿呆に見る阿呆。なれば恥ずかしいなんて言ってないでさっさと踊れ」

「まあ別に、俺は恋なんてしていないのだけれど」


 犬塚は澄ました顔をして言う。その様は、私には取ってつけたような言い訳をしているようにしか見えない。さて、こいつの想い人は一体誰なのだろうか。気になりはするものの、余計な詮索は控えておいた。野暮であるからということもあるが、忙しすぎて構っていられないというのが悲しい理由だ。急いで白い塔を瓦解させなければ、今夜の電車に間に合わないのだ。私は人の恋路よりも自身を優先させる。


「ちなみに、私の場合に限っては本物の運命の出会いであるからして」

「寅ちゃんは本物の馬鹿者だよ」


 譲れない所を述べて話を締めるつもりであったが、犬塚が減らず口をきく。よって私は、如何に己が奇跡的ともいえる幸運をつかんだ男かということを力説することとなった。

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