恋する馬鹿者⑫

「うらやましい」

「妬ましい」

「どうして俺は」

「何故に私は」

『このような恥を』


 一言だけだったつぶやきは呼び水のように周りのそれを引きだし、伝搬して悲しいうめき声として響いていた。大広場に怨嗟の念が満たされる。

 私は危機感を覚えて、どうにかならないものかとお立ち台に立つ扇動者に目を向けたが、彼女もまた大勢の異様に戸惑いを隠せないでいた。落ち着くように拡声器で呼びかけているものの、最早それぐらいで収集がつくものではなくなっている。

 陰気な変態達がゆらゆらと股間を光らせながら揺れる。

 その様は異常の一言につきる。

 もし私が一個人としてこの場に臨んでいたのであれば、おそらく自己保身を第一として即座に逃走していたことだろう。もし教師としてならば、生徒達に誇れる態度を取らねばならぬと彼らの説得を試みたかもしれない。だが現在、私は一人の男児としてここに立っているのである。そうなると第一にとるべき行動は千鳥さんを守ることにある。

 私は彼女の手を取り、大勢からかばう様に後方へと引き込んだ。

 それが不味かった。


『――』


 それを見た幽鬼どもは形容しがたい怨念を吐きだすと私達に向かってゆらりと近づいてくる。それは洋物映画のゾンビの様におぼつかない足取りではあったが、私達の危機感をあおるには過分であった。


「逃げましょう」

「はい」


 私達は視線を合わせ、即座に転身し駆け始める。

 しかし幽鬼どもはその千鳥足のような歩みを、しっかりとした走行へと変える。

 逃げれば追われる。自明の理であった。そして止まれば捕まることも、また然り。捕まるとどうなるかなどは考えたくない。

 かくして私達は聖なる夜の中、なんとも奇天烈なエスケイプを強いられる。

 追われるは若い男女に、追うは多くの社会の窓の光。

 千鳥さんの手を取って先導するように大広場を疾走する。彼女が履いていたのはパンプスであったが踵の高さのないフラットなものであったため、何とかついてきてくれていた。それでも走りにくいことは変わりないはずで、徐々に幽鬼たちとの差は縮まるばかりだ。相手は多勢であるものの、そのこと自体が仇となり互いに衝突を避け見合っている。そのため、なんとか追いつかれずにすんでいるという状況である。だがこのままでは、じきに相手も慣れ始める、そして連携を取り出すだろう。そうなるとお終いだった。

 迅速に撤退することが何よりも重要であった。


「千鳥さん、失礼します。お叱りは後から受けますので」

「えっ、きゃ」


 私は断りを入れつつも返答を待たずに彼女を抱えあげた。もちろん横抱き、俗に言うお姫様抱っこなどは咄嗟に出来るはずもない。学校の防災訓練の際に習得したファイヤーマンズキャリーである。知らない方は柔道技の肩車を想像してくれれば良いだろう。これは致命的な間違いを犯してしまったのかもしれない。傍から見る私達の姿を想像してそんな思いを覚える。だがそんな思考は振り払った、気にしている場合ではない。

 始めは無我夢中で駆けていたが、次第に周りの様子も窺えるようになってきた。

 多くの人々が私達を遠巻きに見物していた。様々な者がいたが、多くはこの奇妙な逃走劇を楽しんでいるようだった。それは向けられるカメラの数で推し量れようというものだ。そこに助けを求めることが果たして最良であるのかどうか、私には疑問に思えてしまう。

 然らば逃げ道を模索する。本当は駅舎に入りこんで駅員詰所や交番へと逃げ込みたい。だが駅舎方面は立ち位置上、幽鬼たちの人海を超える必要がある。また抱え方の問題により千鳥さんの身体をあらゆる障害物にぶつけてしまう可能性が高い。そんなことは許されるはずもなかった。

 あれこれと思案していると携帯電話が鳴り響くことに気づいた。

 本来であれば、とりあっている暇なぞないと判断したであろう。だが私は混乱しており、着信音が鳴り響いていたならば人混みに紛れる機会を逸してしまうと危惧した。うら若き女性を担ぎ上げた、まるで無頼漢が何を言うという話である。ゴソゴソと携帯電話に手を伸ばそうと苦戦していると、千鳥さんが気を利かして「どうぞ」と私の耳に当ててくれた。


『寅ちゃん、こっち』

「その声は犬塚か?」


 瞬時に誰なのかは判別がつかなかったが、私への呼称や話し方により優等生の生徒であると理解する。


「こっちと言われても、どういうことだ?」

『左の方、三階』

「お前、もしかしてこの場にいるのか?」

『いいから』


 指示通りに視線をそちらに向ける。そこには商業ビルがあり、バルコニーに大きく手をふる二人組を発見した。遠目で確証はないが、雰囲気や輪郭より犬塚と猿渡であろうと気付く。


「さっそく逢引きとはやるじゃないか」

『寅ちゃんこそ、綺麗な人じゃん。あとで紹介してよ』

「なんだ、言うようになって」

『そんなことより、追いつかれるよ』

「そうだった」


 犬塚から詳細を聞く。商業ビルが密集する繁華街というのは立体迷路じみたものだ。ビル同士が連絡通路で結びつきあい、彼らがいる場所からならば各所へと逃走が容易いとのことである。あてもなく走り続けるのも現実的ではないため、私は彼の提案にのることにした。これからの経路を確認する。広場を横断するようにかかる高架連絡橋を通るのが最短であった。


「少し揺れます」

「分かりました」


 階段を駆け上がるために千鳥さんに注意を促したが、彼女は文句一つなく、私にしがみついてくれた。なんと聡明な女性であろうか。つくづく、彼女と今のような状況に陥っていることが残念でならない。本来であれば今頃は夜景の見える素敵なレストランで食事と洒落込んでいたはずなのだ。品書きはもつ鍋である。他の店は予約が取れなかったのだ。それを伝えた際の千鳥さんの、拍子抜けしたような安堵するような、あの笑顔を忘れることは出来ない。そんな嘆きを思いながら階段を駆け上がる。あとは連絡橋をひたすら突き進み、向かいのビルへと入るだけであった。

 そこで私達は一つの異変に気づいた。

 音楽が止んだのである。

 今日は「あの日」……ええい面倒臭い。クリスマスイブらしくキャロルというべき讃美歌なぞが駅前には流れていたのであるが、それがピタリと止んだのだ。そうして代わりに聞こえてくるのは弦楽器と管楽器の控えめな調べ。そうかと思うとすぐ様に力強い音が加わり、それは躍動的で人々を鼓舞するような音楽へと変化した。

 妙に聞き馴染んだメロディ。それは題を「地獄のオルフェ」、別名を「天国と地獄」という。運動会によく流れるアレである。決して聖夜に大音量で流れるような曲ではない。


「今日は一体なにが起きている」

「私もこんな変な日は初めてです」


 二人して驚愕を通り越して呆れ果てていると、背後から幽鬼たちの集団が追ってくる。とにもかくにも余計なことは考えずに走りきるしかないのだ。

 冬の空らしくカラリとした晴天の月下、駆ける。

 長く広い高架橋の上で女性を担ぎ上げた男性が走り、その背後は多くの社会の窓の光が群がる光景というのは一体どのようなものなのだろうか。

 予想なぞつきようもない。

 加えて耳にはどこか滑稽で愉快気なメロディが流れている。

 聖夜の幻想的な荘厳さなど欠片もない。

 すべて澄みきった天へと吹きとんでしまっていた。

 こんなのはどこからどう見ようとも、喜劇の一幕でしかないだろう。


「寅次郎さん」

「これは、まいった」


 正面に拡がった光景に私達は嘆きの声をあげる。

 幽鬼たちが前方よりわらわらと群がってきたのだ。どうにも先回りをされてしまったようだ。万事休すである。私は覚悟を決めると進行方向を修正して、高架橋中央にあるエレベーターへと近寄った。


「千鳥さん、あなたはここから逃げてください」

「寅次郎さんは?」

「二人で地上に戻っても、また先回りされるだけです。なんとか引きつけておきますのでその間に助けを呼んできてください」

「そんなの110番すればいいだけです。既にしています」


 彼女の言葉に間抜けな声をあげてしまう。完全に失念していた。私が犬塚と会話している間に彼女は通報を済ませてくれていたようだった。しかしここまで格好をつけておいて「じゃあ一緒に待ちましょう」とは言いにくい。


「それはいわゆる男性の意地というものですか?」

「理解してくれると助かります」

「理解はできませんが、分かりました」


 彼女は不服そうにしながらも了解してくれた。そのまま、こちらの意をくんでエレベーターにて地上へ戻っていく。私はそれに満足すると振り返る。既に私の四方は幽鬼どもが囲っていた。ゆらゆらと揺れる窓の光が鬱陶しい。


「諸君らは、私を一体どうするつもりか?」


 内心では怖気つきつつも気勢を保つために大声を張り上げて問いただす。私の言を受けた正面の数人の男達は問い合わすかのように視線を交差させていた。気持ちはよく分かる。そんなもの勢いで動いていた彼らには分かるはずもない。

 理由なぞないのだ。

 ただ身の内から溢れ出る、情動を発散しようと動きまわる。

 彼らは青春しているだけなのだ。

 例えそれがどんなに遅きに失しようとも、社会の窓を開き他人を妬むという情けないことでも、それが青春。普段私が相手をしている生徒達となんら変わりはしない。人間なんて、そんなものなのである。

 私は幽鬼たちに生じた微かな隙を逃さず、身を捻じ込む様にして移動しようとする。しかし幽鬼たちは、それだけはさせないとばかりにジリジリと私の身を高架橋の端の方へと寄せていった。


「私には何も恥じるところなぞない。だがしかし、無意識に諸君らの不興を買ったのであれば詫びようと思う、教えてくれ、私は一体何をすればいい」

「ではあなたには社会の窓を光らせて彼女とデートしてもらうことにする」

「意味が分からんな!」


 代表して一人の男が答え、私は叫ぶ。

 私は必死で抵抗するも、彼らは大海より湧き出でる舟幽霊のように、手を次々と私のズボンへと伸ばしてくる。柄杓はどこか、渡したところで彼らは満足するのか。

 私は彼らの圧に負けてとうとう欄干にまで追いやられる。

 そのまま背中にトスンとした衝撃を受けたかと思うと「あ」と声をあげた。

 身体がどこにも拠ることのないスウとした感覚。血液が無重力に驚嘆して逆流している。

 先程まで幽鬼どもの面々を眺めていたはずなのに、どうしたことか。一瞬にして私の視界は澄んだ星空と、イルミネーション輝くモミの木が天へと伸びている光景に切り替わっていた。

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