最終話 「夕陽」

 若い男性編集者、三船みふね孝蔵こうぞうは、ずっと心にしまっていた真実を包み隠すことなく、横に座る白坂しらさか夕子ゆうこに告げた。

 話し終えたことで疲れたのか安堵したのか、ホウッと長い息を吐いた。


「すみません、先生。

 今日は先生の大切な授賞式なのに。

 ぼくの勝手な話に時間をいただいてしまって」


「み、三船さん」


 白坂夕子、本名奈々咲ななさきめぐりは、大粒の涙をぬぐうこともせずに、隣りに座る三船を見続けている。今聴いた話を、何度も何度も復唱するように、流れる涙が頬を伝う。


 わたしは、いえ、わたしもずっと大好きです。

 孝蔵くんが心から愛おしいと、今でもずっと思っています。

 孝蔵くんがわたしだけを見ていてくれただなんて、信じられません。

 だって、わたしは空気のようなどこにでもいる普通の女の子なんですよ。

 バトンを受け取ってくださった孝蔵くんのあのときの姿は、今でも鮮明に描けます。ひとりでお弁当を食べているときに、わざわざわたしを探して走ってきてくださったなんて、あのときのわたしに教えてあげたい。


 わたしも孝蔵くんの朝練を、毎日こっそりと拝見するのがとても嬉しかったのです。

 隣同士の席になったときには、天にも昇る心地だったのです。


 弓道大会のときに頭にタオルをかけてくださったとき、一生懸命作ったお握りを、本当に美味しそうに頬張ってくださったとき、わたしは心から感謝し喜びました。あのお握りは、孝蔵くんに召し上がっていただきたい一心で握ったのですよ。


 卒業式で握手してくださった大きな手の温かさは、今でもしっかりと覚えています。

 わたしが小説を書くときには、いつも孝蔵くんのことを想いながら、いつかどこかで読んでくれたらなって、心をこめて文字を紡いでいました。


 担当編集者さんが孝蔵くんだって知ったとき、わたしの心臓は一瞬停止しました。新人賞をいただいたことよりも、わたしは嬉しかった。

 だって、まさかまたお会いできるなんて、しかもわたしの担当さんについてくださるなんて、夢にも思っていなかったから。


 現実の世界で、わたしの想いを告げることなんてできやしないのがわかっていたからこそ、わたしは物語のなかで孝蔵くんに、大好きですって書いてきました。


 わたしの父は、小説家志望でした。

 でもわたしたち家族のために断念したそうです。

 父の愛用していた万年筆でもう書くことはないけれど、あの万年筆があったから、わたしは父から勇気をいただくことができました。


「三船さん、わたしは小学生のときからあなただけを想って、そして小説を書いてきました。

 絶対に届かぬラブレターだと、自分を納得させて物語に想いをすべて入れて」


「せ、先生」


「今このときのわたしは、作家白坂夕子ではありません。

 奈々咲めぐりという、ただのどこにでもいる平凡な女です」


「で、では、あらためて、奈々咲さん。

 ぼくが先ほど話したことは、偽りの欠片もない真実です。

 でも、まさか、奈々咲さんがぼくのことを」


「心から想っています。

 大好きです。

 めぐりは孝蔵くんが、この世で誰よりも好きで好きでたまりません。

 これからもずっと、ずっと大好きでいたい」


 めぐりは、ようやく想いを届けることができた。季節を彩る風景に、夜空に浮かぶ月に、なんども心を支えてもらいながら。絶対に届かぬはずであった想いを、ようやく。


 これから書く小説だって、わたしの想いは変わりません。

 形は色々と変わるだろうけど、孝蔵くんただひとりを恋し、好きだという気持ちを、心をこめて小説を紡いでいきたいのです。


 めぐりの告白に、孝蔵は「う、うそ、うそだろ、だ、だって、俺は奈々咲をずっと恋しく想って、えっ? 奈々咲も俺を想ってって、ええーっ」と、まるで小さな子どものようにうろたえてしまった。


「先生、いや、な、奈々咲さん、冗談でしょ。

 あっ、まだアルコールで脳が麻痺していてそれで俺の話に合わせることにしてなんといっても小説家なのだからいくらでも絵空事は書けるわけでしたがってそのう」

 

 自分でも、なにを言っているのかわからない。


「俺のことが好きだなんて、ありえない。

 だって隣りの席に座っているときだって、ほとんど話もしてくれなかったじゃない」


「それは、孝蔵くんも同じです」


「あっ、いや、たしかにそうだけど。

 だって気味悪いでしょ、俺なんかが好きって告白したら」


「それは、わたしも同じです」


 太陽がゆっくりと、建ち並ぶビル群のなかへ隠れていく。

 あかね色の雲が、まるでベレー帽のようにビルの頭に乗っている。

 孝蔵は涙にぬれる、めぐりの大きな瞳を見つめた。


「俺は、奈々咲を誰よりも恋しく思っています。

 だけど担当編集者としてそんな気持ちを持っていたら、これからの白坂夕子という、偉大な作家の将来を潰してしまうんじゃないかって」


「わたしは孝蔵くんがいてくださるからこそ、白坂夕子として物語を書いてきました。

 これからだって変わりません。

 もっともっと書きたいのです。

 だって、わたしはこんなにも孝蔵くんが」


「俺は、あなたを好きでいてもいいのですか?」


「わたしは、孝蔵くんを好きでいてはだめですか?」


 孝蔵は切れ長の目に、決意の色を浮かべた。


「奈々咲めぐりさん。

 俺はあなたを、ずっと想って生きてきました。

 もし、もしよかったら、俺と、俺の恋人として付き合ってください!」


「こんなわたしでよければ、どうぞよろしくお願いします」


 めぐりは涙で喉を詰まらせながら、それでも最高の笑顔で応えた。

 孝蔵が今まで見てきたなかで、最高の天使の微笑みだった。


 孝蔵は遠慮気味に、それでも弓道で鍛え上げた丹田に力をこめて、両手でめぐりの肩をそっと抱き寄せた。


 西のビル街から差す薄紅うすくれないの光が、東に向かって長い影を描き出す。

 空中庭園に敷かれたレンガの上を、ふたつの長い影が真っ直ぐに伸びていた。

 そのふたつの影が、ゆっくりと寄り添う。

 そして、影法師がひとつになった。

                                    了

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影法師がひとつになるとき 高尾つばき @tulip416

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