四話 「初恋」

 めぐりである。


 一瞬目が合っためぐりは、あわてて視線を逸らした。

 顔が火照っていくのがわかる。

 心臓がドキドキ脈打ち、音が聴こえやしないかとセーラー服の胸元を両手で隠した。


 今朝も登校すると自転車置き場から、そっとのぞいていたのだ、弓道場を。

 桜の花びらが舞う弓道場では、真っ白な上衣に漆黒の袴を身につけた男子生徒が、ひとり静かに練習をしている。


 弓道場は射場しゃば矢道やみち的場まとばで構成されている。

 他の武道場と大きく異なるのは、すべてがオープンになっており、外側からも道場の中を見通せる点である。


 男子はグラスファイバー製の弓を弓手ゆんで(左手)に握り、かけをはめた馬手めて(右手)で弦を引く。

 弦にはジュラルミン製の矢がつがかれており、「かい」の状態だ。


 弓道には作法がある。

 射法八節しゃほうはっせつと呼ばれており、射場に立って矢を射終わるまでを八つに分けているのだ。

「会」とは矢をつがえた弓を右手と左手で「引き分けひきわけ」て発射のタイミングを図る状態にことを指す。

 最も緊張感が高まるのが、この「会」である。


 めぐりは弓道場に隣接する自転車置き場に誰もいないことを確認したあと、息を殺すようにして射場を見つめていた。

 射場に立っているのは、孝蔵こうぞうであった。

 孝蔵の鋭い眼差しは二十八メートル先の的をにらんでいる。

 ひらひらと舞う桜の花びらが瞬間静止した。


 ビュッ!


 矢が空気を切り裂いた直後。


 カンッ! 


 的から鋭い音が響く。


 空中に貼りついていた花びらが再び引力と大気により揺らめく。

 孝蔵が放った矢は、的の真ん中に刺さっていた。


 めぐりは止めていた息を思いっきり吸い込み、思わずパチパチと拍手しそうになり、あわてて頭を振る。

 自分のようなモブキャラ以外何者でもない女子が歓声を上げたって、迷惑になるだけだ。

 そう自身を戒める。

 このもったいないような空間を独り占めできただけでも充分なのだ。

 孝蔵には気づかれてはいないようだ。

 彼の視線は的場を向いたままだから。


 やはり何度見ても格好いいと、めぐりは思う。

 サッカーや野球、もしくはテニスは華やかだ。

 応援するほうも大声でエールをおくることができる。

 だが弓道は違う。

 ここ一番のときには、逆に静粛にしなければならない。

 そうでないと射る人の精神集中を乱してしまうからだ。


 めぐりは性格上、声を上げて手を振って選手を応援することなどできない。

 だから、孝蔵が弓道部で良かったと心底思う。

 もし孝蔵がサッカー部だったら、多分応援には行けないから。

 行ったとしても、観客席の片隅で、ただ両手を組んで「頑張ってね」と小さな声でつぶやくことしかできなかったであろう。


 その点、道場で弓を引く孝蔵なら、こうして静かに応援できる。

 孝蔵はすでに次の矢をつがえ、所作に入っていた。

 めぐりは固唾を飲んで心の中でエールをおくる。

 ところがそこへ自転車通学の生徒たちが次々と現れ始めた。


 残念だけど仕方がない。

 今日はここまで。


 なにげないふりをしながら、通学カバンをもって自転車置き場から教室へ向かった。


 直後、カンッ! と高い音が鼓膜に響く。


「せいっ!」

 

 めぐりは小さく叫び拳を握り、微笑んだ。

 的に矢が命中したのだ。

 その際に、「せいっ」と掛け声を上げるのを、昨年一年間覗き見しながら学んでいたのである。


 ~~♡♡~~


 孝蔵は、めぐりと同じ学区であった。

 だから小学校、中学校を同じ学びで過ごしてきた。


 めぐりが小学五年生の時のことである。

 毎年秋に小学校では大運動会が開催される。

 めぐりがもっとも気が重くなる行事であった。

 理由はふたつ。


 ひとつは運動が大の苦手であり、どんなに努力しても徒競走では必ず最下位になってしまうからであった。

 運動会が近づくころ、人目をはばかるように団地内を体操服姿で走る。

 息が切れるまでひたすら走る。

 今年こそはせめてビリを回避したいと、太陽が西の空に沈むまで練習をした。

 それでもその努力は一向に報われない。


 紅白にわかれた各学年で勝敗を競うのだが、五年生になると、クラスを横断してチームを組むリレー競技があるのだ。

 それも足の速い生徒をチョイスするのではなく、クジで選手を選ぶ。

 最悪なことに、めぐりは見事に当選を引いてしまったのだ。


 まさかこんな時だけ当たりを引くなんて。

 めぐりは逃げだしたくなる。

 それでも責任感は人一倍強いから、本当に逃げ出すことはしなかった。

 運動会前日まで、各チームは放課後になると校庭でリレーの練習を毎日行った。


「ねえ、どうしてめぐちゃんが選手なのよ」


「あれだけ足が遅いのだから、選手を棄権してくれてもいいのに」


 口の悪い同級生たちは、一生懸命汗をかきながら走るめぐりをあからさまに馬鹿にする。

 そのチームにいたのが孝蔵であった。

 孝蔵は何も言わなかった。


「みんな、ごめんなさい。

 わたしなんかがチームに入ってしまって」


 息を切らしてチームのメンバーに頭を下げる。

 泣きだしたい気持ちが感情を高ぶらせた。


「勝負は時の運だ。

 とにかくバトンを落とさないように、繋ぐ練習をしよう」


 孝蔵はめぐりを振り返ることなく、他のメンバーに声をかける。

 めぐりは目尻に浮かんだ涙をふいて、もう一度みんなに頭を下げた。


 そして迎えた本番当日。

 めぐりは四番手、つまりアンカーへバトンを繋がねばならない。

 運動会の目玉ともいえる五年生選抜のリレーは、やはりめぐりの番で大きく他のチームに引き離されてしまう。

 それでも全力で走った。

 アンカーは孝蔵だ。

 心臓が悲鳴を上げる。


「がんばれ!」

 

 大声でめぐりに声援を送る孝蔵が、右手を精一杯伸ばしてくれている姿が瞳に映った。

 汗と涙を後方に飛ばしながら走る。

 すでに他のチームはアンカーにバトンが渡り、駆けだしている。


「もう少しだ! がんばれ!」


 めぐりが転びそうになりながらも、ようやくバトンを孝蔵に渡した。


「よし! 受け取ったぞ!

 ここからは俺の番だっ」


 孝蔵は目尻の上がった目元に笑みを浮かべて、めぐりから受け取ったバトンを握りしめると一気に走り出す。


 精も根も尽き果てためぐりは、その場にしゃがみこんでしまった。

 このままチームは自分のせいで最下位の汚名を残すかと思い、顔を体操座りした膝の上に伏せた。


 その直後、ものすごい歓声が校庭内に響き渡る。

 ちらりと目だけを上げた。

 かなり引き離されていたアンカーの孝蔵が、韋駄天いだてんのごとく猛スピードで走って行く姿がめぐりの視界をとらえた。

 しかもひとり、ふたり、と抜いていくではないか。

 校庭内には父兄たちも大勢応援に来ているのだが、孝蔵の走りに大歓声が巻き起こっていたのだ。


「す、すごい」


 めぐりは呆気にとられ、孝蔵の走る姿に魅入った。

 残念ながら三位までの入賞はかなわなかったものの、最下位にはならずに済んだ。 

 めぐりが運動場に設置されたクラスの席のもどると、隣のクラス全員が孝蔵を取り囲んで「すげえな、三船みふねっち」、「かっこよかったわあ」、「ああ、これでもしあの奈々咲ななさきじゃなかったら、優勝間違いなしだったのになあ」と声を掛けあっていた。


 めぐりは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 自分のクラスの席についても、誰も何も言ってはくれない。

 その他大勢のひとりであるめぐりは、まるで透明人間のような気持ちになっていた。


 お昼休みには生徒たちは一度席を離れて、家族と一緒にお弁当を囲む。

 めぐりは桃色のポーチを持って、誰もいない校舎の隅へ向かった。

 運動会の嫌いな理由、ふたつめである。


 ポーチには今朝出掛けに、かおるが申し訳なさそうな顔つきで渡してくれたお弁当が入っている。


「ごめんね、めぐ。

 どうしてもお仕事が休めなくて」


 薫はめぐりに頭を下げた。

 運動会は日曜日に開催されるが、薫はスーパー勤務のため日曜日は多忙なのだ。

 なかには理由をつけて有給を取り、小学生の子どもの運動会へこっそり出かける人もいる。

 だから正社員の薫は余計に休めなかった。

 めぐりの責任感の強さは、薫譲りのようだ。


「大丈夫よ、おかあさん」


「めぐの運動会くらいは、おかあさんも観にいきたいんだけど」


「平気だよ、わたしは。

 他にも親が来ない子もいっぱいいるから」


 ニコリと笑顔を浮かべた。

 だけど毎年運動会の日には、ひとりでお弁当を食べなければならないのが、本当は寂しいのであった。


 校庭のあちらこちらでは、両親や祖父母たちと楽しそうにおしゃべりしながらお弁当を食べる声が聞こえる。

 まぶしい陽射しを避け、めぐりは校舎の階段に腰を降ろした。


「いただきます」


 午前中にいつも以上に酷使した脚が痛い。

 それでもお腹は減っている。

 小さなお弁当箱を開いた。

 白いご飯の上には「ファイト! めぐ」と海苔を切って作られた文字が目に入る。

 あとはめぐりの大好きな玉子焼きに茹でたブロッコリー、手作りの煮込みハンバーグが綺麗に収まっていた。

 薫はどんなに多忙であっても、食事だけは手を抜かない。

 だからお弁当に冷凍食品が詰まっていたことは、一度もなかった。


「おかあさん、ありがとう」


 涙の乾いた頬を緩めて食べ始めた。

 人影に気づき、顔を上げる。

 するとそこには、鉢巻を凛々しく巻いた孝蔵が立っているではないか。


 めぐりはドキリとした。

 きっとリレーで自分が遅かったことに文句を言いに来たんだ。

 目線を思わず下げ、小さな声で「ご、ごめんなさい、わたしのせいで」と謝ろうとした。

 ところがその言葉の途中で、孝蔵が思いもよらぬ言葉を発したのだ。


「さっきはよくがんばったよ。ありがとう」


「えっ?」


 めぐりは目を見開き、顔を上げた。

 孝蔵はそっぽを向いたまま、もう一度「ありがとな」とぶっきらぼうに言うと、めぐりを振り返ることなく走って行く。


 どういうこと?

 わたしを怒りに来たんじゃないの?

 ありがとうって?


 孝蔵の走って行く後ろ姿を見つめる。


 運動会も無事閉会式を終え、生徒たちは父兄たちと帰途についた。

 団地に帰り、めぐりは自宅の鍵を開けてそのまま自室へ入る。


「孝蔵、くん。ミフネコウゾウくんかあ」


 めぐりは何度もその名前を心の中でつぶやいた。


 それ以来、孝蔵を意識し始めるようになった。

 学校の廊下ですれ違っても、孝蔵はめぐりを見ることはないし、ましてや声を掛けてくることもない。

 それでもめぐりは孝蔵に出会うと小さく会釈する。

 その度に胸がきしみ、顔全体が熱くなった。


 そしていつしか孝蔵の顔や声を思いだし、ドキドキする自分に驚く。

 これがめぐりの初恋であった。

 中学校も同窓であったが、クラスが一緒になることはなかった。

 そして桔梗が丘ききょうがおか高校の二年生になって初めて同じ教室で学ぶことになったのである。

                                  つづく

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