二話 「進路」

 今日は午後の時間を自習時間として、担任と進路面接をする日である。

 生徒たちは名簿順に進路指導室に呼ばれ、あらかじめ提出しておいた進路希望に基づき話し合う。


 さすがに二年生ともなれば、先生が教室にいなくてもそれぞれが得意科目や不得手な分野の自習勉強を行っていた。


 めぐりも中間考査に向けて、少し苦手な化学の教科書を開いて頭をひねっている。

 静まり返った二組の教室。

 窓からはグランドの体育授業のざわめき、校舎の外を走る車の音が、開けられた廊下側の窓へ通り抜けていく。

 教科書をめくる音や、ノートに書くシャープペンのノック音がやけに響いていた。


 元素記号を覚えようと、ノートに書き込みながらめぐりは葛藤している。

 油断するとつい右側を意識してしまうのだ。

 すぐ手の届くところに、想い続けている人が座っているのだから。

 拷問、は大袈裟にしてもめぐりにとってこの席は憧れであったと同時に苦しみももたらせてくれる。


 でも、けっして嫌な苦しみではない。

 小学生のときから、ずっと心の中で描いていた。

 この席が自分に与えられたら、どれほど嬉しいかと。

 大好きな人の横顔、仕草が手に取るようにわかるのだから。

 逆をいえば、相手にも自分の態度がわかってしまう。

 そのため、常に緊張を強いられる。

 顔の筋肉が痙攣けいれんするような錯覚さえ覚える。

 変な汗をかいて不快に思われやしないだろうか。

 あからさまな視線をぶつけてしまって、引かれてしまうのではないか。


 ネガティブな思考にはまると、さらに深い闇に吸い込まれそうになる。

 めぐりは意識して右側を遮断するように努めなければならなかった。

 授業中は今まで以上に教科に集中するようになったから、結果として勉強が理解できるようになったのは、風が吹けば桶屋がもうかるの原理かもしれないが。


 ガラッ、と教室の入り口が開く。

 面談を終えた女子生徒が入ってきたのだ。


奈々咲ななさきさん、次だって」


 抑揚のない声で呼ばれるめぐり。


「あっ、はい、ありがとうございます」


 あわてて立ち上がったときに、机上の筆箱が派手な音を立てて床に落ちてしまった。

 一斉に非難の視線が集中する。

 めぐりは「ご、ごめんなさいっ」と頭を下げて急いで筆箱を拾おうと屈んだところへ、すっとその筆箱が目の前へつきだされた。


「えっ」


 孝蔵こうぞうが無言で差し出してくれているのだ。


「あ、あのう、ありがとう」


 めぐりは孝蔵の顔を思わず見てしまう。


「いいよ、別に。

 ほら」


「す、すみませんっ」


 一瞬だが目が合った。

 いつもの仏頂面ではなかった。

 目元に優しげな光が宿っている。

 めぐりの心臓が、トクンッと音を立てる。


「ほら、早く行かないと」


 孝蔵は腕を差し出す。

 小学校のリレー以来、の会話だ。

 頬を赤らめ、もう一度頭を下げると筆箱を受け取った。

 スカートの裾を広げて、めぐりは足音を立てないように忍び足で後ろの入口へ走る。

 孝蔵は何食わぬ顔で、再び教科書に目を落とした。


 ~~♡♡~~


「奈々咲、この進路はおかあさんと話し合ったのか」


 進路指導室でテーブルをはさんで、担任の高梨たかなし先生と向かい合っている。

 めぐりは両肩に力を入れているかのような硬い姿勢で、高梨先生の胸元に視線を置いていた。


「あっ、いえ、まだ母には言ってはいません」


「だけどなあ。

 きみくらいの実力があれ国立のメーダイでも、公立のナゴヤ市大でも充分挑戦可能だぜ。

 どうして就職希望なんだ?」


 めぐりは高校に入学したときから、大学への進学はしないつもりであった。

 高校教育を受けられただけでもかおるに感謝している。

 卒業したら就職して、早く少しでも薫の負担を減らしたかったから。


「えーっと、わたしは大学で学ぶ時間があれば働いて」


 高梨先生は手にした用紙をテーブルに置いた。

 いつものジャージスタイルである。


「きみが母子家庭であることは、もちろん知っているさ。

 だけどな、奨学金をもらいながら大学へ通っている先輩は大勢いるんだ。

 それに大学生であれば、アルバイトだってできる。

 おかあさんに負担をかけたくないって気持ちはわかるが、もったいないぞ、奈々咲」


 めぐりは黙って視線を下げていた。


「きみの将来を考えれば、おかあさんだって大学へ行ってほしいと考えていらっしゃるはずなんだ。

 塾通いもせずに、この高校に入学できたんだろ?」


「はい」


「なっ、そうだろ。

ほとんどの生徒はさ、中学時代に塾へ通ってこの高校を目指してきてるんだ。

それをきみは、自分の力だけで入学したきた。

 何事にも手を抜かない努力家なんだよ、奈々咲は。

 他の先生がたも口にしてるよ。

 奈々咲は、本当に真面目な生徒だって」


「いえ、あっ、はい。

 でも、やはり」


「きみに足りないのは積極性だけど、そんなことはいい。

 誰だって百パーセントじゃない。

 先生はきみには大学進学してもらいたいと願っているんだよ。

 まあすぐに結論は出さなくていいから、一度おかあさんと話し合ってごらん」


 高梨先生は優しい眼差しでめぐりに語る。


「はい、ありがとうございます」


 苦い汁を口にふくんだような表情で、めぐりは頭を下げた。


〜〜♡♡〜〜


 放課後、めぐりはバッグにポーチを両手で持ち、自転車置き場へ歩いていた。

 グランドから運動部の元気のいい声が聞こえる。


「おっ、奈々咲くん、お帰りか」


 ハツラツとした声に顔を上げると、ブルーのトレーニングウエアを着てランニングしているしゅうがその場駆け足で手を挙げていた。


「室長、お疲れさまです」


「気をつけて帰るんだぞうっ。

 じゃ、また明日」


 周は元気よく走り出した。

 めぐりはモヤモヤしていた気分が少しだけ晴れるのがわかった。

 周にとってはただのクラスメートのひとりにすぎない。

 だけどこうして声を掛けてくれる。


 そういえば、今日は孝蔵とも会話とはいえないけど、言葉を交わした。

 自転車置き場では、帰宅部の生徒たちがしゃべりながら自転車を出していた。

 めぐりは自転車を探すふりをしながら、弓道場に焦点を合わせる。


「せいっ!」


 的にたった掛け声が聴こえる。

 道場の外では一年生であろう、整列しゴムきゅうを引いている。

 ゴム弓とは、二十センチほどの木製の棒に太いゴムがついており、ゴムを引いて型を覚えるのだ。


 その横では太鼓のような大きさの巻藁まきわらに向かって、矢を放っている道着姿の女子たちもいる。

 巻藁とは、型の稽古用の的のことである。

 藁を巻いて作ってある。


 孝蔵は、いた。

 今日は一年生について、型を教えているようだ。

 射場しゃばで弓を引く孝蔵も格好いいけれど、真剣な眼差しで指導する姿も凛々りりしくたくましい。


 めぐりは気づかれないように自転車置き場の蔭から孝蔵を見やった。

 なんだか根暗なストーカーに陥った気がしないでもない。

 孝蔵の仕草、表情を心に焼き付けるようにしっかりと記憶する。

 あまりジッと見ていて気づかれたまずい。

 もう一度だけ、とめぐりは大きな瞳を固定し、カメラのシャッターを切るように長いまつ毛を閉じた。


 うんとうなずいた後、めぐりは自転車のハンドルを握り、歩き出した。

 

~~♡♡~~


 麻友子まゆこは美術部に所属している。

 絵心があるにはあるのだが、本当の目的は他の部員と仲良くなって、『小説ラウンジ』にアカウントをつくってもらうことであった。

 部活は週に三回だけなので、運動系のクラブよりも時間に余裕を持てるのも理由のひとつだ。


 美術室は北校舎一階にあった。

 そこからは、弓道場や自転車置き場が窓越しに見える。


「ふーん、あの子ったらジッと弓道場なんか眺めちゃって、なんだか気味わるいわ」


 麻友子の目に、孝蔵を見ているめぐりが映っている。


「どうしたの、麻友子」


 同級の仲良い部員が窓際に立っている麻友子に声をかけた。


「あっ、うん。なんでもないよ。

 さってと、デッサンの続きをやらなきゃ」


 言いながらも、その細い目は窓を向いたままであった。


 ~~♡♡~~

 

 自宅にもどっためぐりは薫との夕食もそこそこに部屋にこもると、矢島やじま鈴子りんこの「小説を書きたいあなたへ」を通学バッグから取り出した。

 丹念に読み込んでいく。

 まさか図書館の本にアンダーラインを引くわけにもいかないため、重要だなと思われるポイントは新しいノートに書きだしていった。


 今まで数多くの小説を読んできたのだが、なるほど、プロの作家は確かに読ませる工夫をしているのだということがわかった。

 単なる読者の立場ではなく、書き手側の視点で小説を読むとまた違った味わいになることに気づくのであった。

                                  つづく

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