四話 「降雨」

「で、できたっ、書けた!」


 ノート最後のページの、最終行。

 ゆっくりと丁寧に「。」を書く。

 

 めぐりは初めて取り組んだ小説を、ついに完成させた。

 フウっと大きく息を吐きだし、椅子の背もたれに上半身を反らす。

 安堵感と達成感が横糸、虚脱感と不安感が縦糸となって格子をつくる。

 ややうつろになった二重の目で、机上の目覚まし時計を確認する。


「あっ、もうこんな時間。

 急がなくちゃ」


 時計は午後一時をまもなく指そうとしていた。

 めぐりはかおるの勤めるスーパーへ行って、薫のアドバイスを受けながら明日のための買い出しをする予定なのだ。

 昼食を摂っている時間はない。


 部屋着から外出用の生成きなりのシャツに爽やかな黄緑色のパーカーを重ね、ブルゾンを履く。

 財布と家の鍵をショルダーバッグに入れて、キッチンで火の元を確認した。

 スーパーまでは自転車で十分もかからない。

 ペダルを漕ぎながら、灰色の空を仰ぐ。

 生ぬるく湿った大気ではあるが心は晴れやかだ。


 おとうさん、めぐは生まれて初めて小説? らしきものを書き上げました。

 プロを目指していたおとうさんが読んだら、苦笑を浮かべるような作文にしかなっていないかもしれません。

 だけど、わたしは精一杯頑張りました。

 おとうさんに自慢できることがなにもなかったわたしだけど、これでわたしにも物語を書くことができることがわかったから、少しだけ自信を持ちました。

 自己満足かもしれません。

 わたしはウエブの小説投稿サイトを利用することができないけれど、たったひとりだけ、わたしが書いた小説を読んでくれるお友だちがいます。

 とても恥ずかしいのだけれど、読んでもらえるように来週お願いする予定です。

 おとうさんにも読んでほしかったなあ。


 団地街を走り抜けながら、亡き父に心の中で報告するめぐりであった。


 ~~♡♡~~


 日曜日は朝から霧のような雨が地上を湿らせていた。

 風は吹いていないのにもかかわらず、傘を差しても横から下からミスト状の雨が身体にまとわりついてくる。


 めぐりはいつもより二時間も早く起きて、お握りの準備をした。

 薫はさらに一時間早くからキッチンに立っていたのだが。

 炊飯器は昨夜からフル稼働であった。

 三回炊くために、お米を研いでは水につけておかなければならない。


 具材は薫が知恵をしぼった。

 牛の小間切れを味噌でしぐれ煮を作り、缶のツナを大葉とマヨネーズで和え、鰹節とチーズを醤油で味付けし、王道の梅干しは種を取って食べやすくする。


「時間があれば、玉子焼きとか作ろうか、めぐ」


 せっせとできたお握りに、パリッとした海苔を手際よく巻いていく。


「あっ、おかずは他のお友だちが担当だから。

 わたしはお握りだけでいいの」


「了解。

 あいにくのお天気だけど、今の時期は仕方ないわね」


「大降りにならなくて、よかった」


 集合は午前十一時だから充分間に合うかな。

 孝蔵こうぞうくん、緊張していないかなあ。

 お握り、食べてくれるといいな。


 団地から地下鉄の最寄駅までは、めぐりの足で二十分はかかる。

 雨のなかを自転車だとせっかくのお握りが濡れてしまうかもしれないから、今日は歩いて行かなければならない。

 三十個のおにぎりは総重量が結構あった。

 十個ずつスーパーのビニール袋に入れて、ちょうどいいバッグはないので図書館用の薫手作りバッグで持って行くことにした。

 県下の高校対抗試合であるため、私服ではなく白のセーラー服を着る。


「気を付けていってらっしゃい」


「おかあさん、今日はありがとう」


「おかあさんもワクワクできたからいいのよ。

 どの具材が人気あったのか、帰ったら教えてね」


「はいっ。

 じゃあ、いってきます」


 めぐりはニコリと微笑み、肩からはポシェットを下げて、お握りの入ったバッグを持ち上げた。

 地下鉄は日曜日ということもあり、かなり混雑していた。

 普段ほとんど地下鉄を利用しないめぐりは、まるで迷子のようにバッグを胸元で握りしめ、地下鉄のゆれにあらがうように両足を踏ん張っていた。

 目的の駅で他の乗客と同じように押し出され、ようやくまともな呼吸ができた。


 腕時計の針は午前十時半を回っている。

 待ち合わせ場所は、この地下鉄駅を上がればすぐだ。

 もしかして同じクラスの生徒は来ていないかなと、キョロキョロしながら改札口までのエスカレーターに乗った。

 自動改札を通り抜け行き交う人たちをすり抜けて、地上への階段を上る。

 ここまでは見知った顔に出会わなかった。

 麻友子たちとの待ち合わせは十一時。

 現在時刻は、十時四十分過ぎ。

 ミストのような雨は、まだ降り続いていた。


~~♡♡~~


 ビュンッ!


 カンッ!


「せいっ」


 スポーツプラザ内にある弓道場は、静かな熱気に包まれている。

 落ち前の四番手が放った矢は、見事に的中した。

 孝蔵は弦に矢をつがえ、弓を持ち上げる。

 予選では五人で八本の矢をてれば通過圏内だ。

 ここまですでに二本の矢をはずしている桔梗が丘ききょうがおか高校。

 落ちの孝蔵の双肩には、みなの期待がずしりと乗っている。

 ヒュウっと息を吐き、スウッと鼻から新鮮な空気を吸い込みながら弓を持ち上げた。

 射場しゃばの後方には応援に来た生徒たちが、固唾を飲んで見守っている。


 孝蔵はプレッシャーと戦いながらも、心を無の境地へ持って行く。

 ギリギリと音を立てるように弦が引かれ弓がしなった。

 孝蔵の獲物を狙う鋭い視線が矢先を的に合わせる。

 左半月と呼ぶ狙い方で、ピタリと止まった。

 道場内の空気がピンと静止した。

 次の瞬間、孝蔵の放った矢が的に吸い込まれるようにたった。


「せいっ」


 観客たちから一斉に掛け声が上がる。

 孝蔵は表情を変えずに「残心ざんしん」の姿勢をとり、頭を正面に向けた。


「やったな!」


 観客席で応援に来ていたしゅうが、ガッツポーズをとった。

 二組からは他に恋歌れんか、そして麻友子まゆこと六名、それに何人かのクラスメートがいた。

 恋歌は拍手しながら、少し首を傾げて麻友子に問うた。


「そういえば、奈々咲ななさきさんは来ていないのね」


「私たちも誘ったのよ。

 に地下鉄のところでねって。

 寝坊したか、忘れてるんじゃないかな。

 ねえ」


 麻友子は隣の女子に相槌を求める。


「そうよ。

 それか、期末考査に向けて勉強してるんじゃないかしら。

 あの子、ガリ勉みたいだしい」 


 クスクスと笑い声が起きた。


~~♡♡~~


 重いバッグを肩にかけ、傘を差して待つめぐり。

 約束の時間は、すでに十五分過ぎていた。

 

 地下鉄が遅れるってことはあるのかな。

 でも誰も来ていないってことは、わたしが時間を間違えちゃったのかもしれません。

 そんなはずはないのだけど。


 不安感が足元から這い上がってくる。


 孝蔵くんの試合、もう始まっちゃたかもしれないな。

 だけど九堂くどうさんたちを置いて先にいくわけにもいかないし。

 どうしよう。


 人通りを何度も確認するが、桔梗が丘高校の制服姿はどこにも見えない。


 もう少し待とうかな。

 孝蔵くんたちなら絶対に予選を勝ち抜くと思うから、万が一遅れても本選で応援を送ろう。

 それにお握りも食べてもらいたいし。


 なるべくポジティブに考えようとめぐりは決めた。

                                  つづく

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