四話 「感激」

 それからお昼休みになると、度々瑠奈るながお弁当の入ったポーチをぶら下げ、二組の教室を訪れるようになった。


 朝から雨の降る日。

 二組の教室内、お弁当組の生徒たちがグループに別れて食べようと準備していた。

 めぐりはポツンと取り残されたように、自席でたったひとりっきりの昼食を摂ろうとポーチを取りだす。

 そのとき、瑠奈が廊下からめぐりを手招きする姿を見つけた。

 いぶかしげな表情を浮かべるめぐりに、お弁当を持って出ておいでとジェスチュアーで応える。


奈々咲ななさき、たまにはさ教室以外で弁当を食おうぜ」


「えっと、でも、どこで?」


「いいから、ついてきなよ」


 瑠奈は眼鏡のブリッジを指先で上げ、ウインクする。

 瑠奈が向かったのは、グランドピアノが置いてある音楽教室であった。


二井原にいはらさん、ここでお弁当を食べてもいいの?」


「ああ、まったく構わないさ。

 なんといっても、ここを根城にする吹奏楽部の部長さまだからな、ウチは」


 桔梗が丘ききょうがおか高校では、美術、音楽、書道から生徒が教科を選択できる。

 めぐりは芸術関連が不得手なため、書道を履修していた。

 ために音楽教室へ入るのは初めてであった。


 防音を施された広い教室内にはグランドピアノの他に、ドラムセットやエレキギター用のアンプ、ティンパニーにマリンバまで置いてある。

 楽器など無縁のめぐりは、大きな目をさらに広げて観察する。


「ふふっ、いろんな楽器が置いてあるだろ。

 公立の高校では珍しいよな、ここは。

 だから吹奏楽部にも、力を入れちゃってるんだ」


「凄いなあ。

 わたしは音痴だし、中学時代にはリコーダーの練習にも苦労したの」


「その気になったらいつでもおいでよ。

 ウチはトランペッターだけど、打楽器やギターもそれなりに弾けるんだぜ」


 瑠奈は誇らしげに胸を張る。


「あっ、わたしは、無理かも」


 あわてて手を振るめぐりに、おかしそうに笑う瑠奈。


「それよりもさ、早く飯を食おうぜ。

 腹がへっちまった」


「同じく、です」


 ふたりは教室内の窓際席に座った。

 閉めきった窓ガラスには、降る雨が次々と水滴を重ねていく。

 自席でぽつんとひとり、お弁当を食べていたら、嫌いではない雨でも少しだけ眉をしかめてしまったかもしれない。

 こうして誘ってくれる瑠奈には、本当に感謝したいと思う。


「それでな、数学の授業中にこっそり瀬道せどうっつあんの新作を読んでいたんだ」


「えーっ、それはまずいのでは」


「だって、つまんないんだ、数Ⅱの授業は」


「二井原さんは理系だから、必須科目でしょ」


 心配そうな表情のめぐりに、瑠奈はニヤリと口元を曲げる。


「奈々咲、勘違いしてんな。

 ウチはさ、数Ⅱはすでにクリアしてんだ」


「えっ」


「ふふっ、そうさ。

 数Ⅱならもう完璧ってこと」


「二井原さん、さすがです!」


「まあな。

 だからさ、こっそりと奈々咲お奨めの本を読んでるってえこと」


 おしゃべりをしながらお弁当を食べるのって、やっぱり楽しいな。

 もっとわたしに勇気があれば、クラスの人たちともお話できるのになあ。

 二井原さんのようなひとが、どうしてわたしなんかを気にかけてくれるのかが不思議。

 わたしに自慢できる才能なんてないし。


 そんなめぐりの気持ちをくみ取ったかのように、瑠奈は言った。


「奈々咲さあ」


「はい」


「去年は同じクラスだったろ。

 席が前と後ろだったから声をかけやすかったってのもあるけどさ。

 ウチは奈々咲からいろいろと学べて、ホント嬉しいんだ」


「ま、学べって。

 わたしなんか二井原さんのような頭も音楽の才能も、なんにもないのに」


 食べ終えたお弁当箱の蓋を閉じ、瑠奈は続ける。


「ウチの頭脳は理系にできてんだ。

 昔っから計算高い女子でね。

 あっ、ここは笑うところだぞ。

 それと音楽。

 まあ、こっちは母親がピアノ講師だから当然ちゃあ当然か。

 結果としてだな、読書するチャンスに出会わなかったんだ。

 小さい頃は読書が大好きだったのにさ」


「二井原さんの本を読む速度って、わたしでも驚くほど速いのに」


「そこよ、そこ。

 なぜウチが再び読書に目覚めたのか。

 それはひとえに、奈々咲の影響なんだなあ」


 影響?

 わたしが二井原さんのようなひとに与える影響なんて、ないはずなのに。


「ほら、去年の現国の時間だよ。

 あのときに夏目なつめ漱石そうせきの『こころ』を読んで、感想文を書けって宿題があったろ」


「あっ、ありましたね」


「全員が提出した読書感想文のなかから、奈々咲の書いた感想文がとてもすぐれているからって、先生が授業中に読み上げたじゃん」


「いやだ、あのときは本当に恥ずかしかったの。

 そんな発表していただくほどの感想文じゃなかったし」


 思いだして赤面する。


「ウチはさ、奈々咲の書いた感想文を耳で聴いてな、すごく感激したんだ。

『こころ』は読んださ。

 たしかに名作だよね。

 でも正直いうと、上っ面しか読んでいなかったってことに気づいたんだ」


 瑠奈はグイッと顔を近づけてきた。

 思わず身を引くめぐり。


「奈々咲の書いた感想文を聴いた直後、ああ、『こころ』ってこんなにも素晴らしい小説だったんだ! どうしてそこまで読みこめなかったんだろう。

 奈々咲はウチに『こころ』って物語は、本当はこうなんですよって教えてくれたと思った。

 奈々咲の感想文に大感動しちゃったんだ」


 ええっと驚くめぐり。


 そういえば、先生が読んでくださったあとに、二井原さんがいきなり振り向いて涙目で握手してきたことがあったっけ。


「奈々咲って女子は普段目立たずおとなしいのだけれど、実はとんでもない才能を持っているんだ。

 ウチは確信した。

 それに感想文といえどよ、あれだけの文章を高校一年生が書くことができるってことはだ、想像もできないくらいたくさんの書物を読んでいるに違いないと思った。

 ボキャブラリーが半端ないもの。

 それで久々にウチの読書欲に火が点いたんだ」


 真面目な口調は、けっしてめぐりをからかっているのではない。

 そう感じた。


「奈々咲ならウチにピッタリの本を紹介してくれるんじゃね? と勝手ながら思った。

 予想はドンピシャだったな」


「二井原さん、それはわたしのことを買いかぶりしすぎです。

 わたしは本が好きだから読んでるだけなのに」


「だろ?

 だから奈々咲の薦めてくれる本なら、絶対に面白いって思ったんだ」


 瑠奈の言葉にとまどいながらも、めぐりは友だちっていいなあと思った。

                                  つづく

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