五話 「考査」

「はい、そこまで。

 じゃあ後ろの席から順番に、前へ解答用紙をまわしてくれ」


 ジャージ姿の高梨たかなし先生が指示する。

 ああ、とも、うーん、ともいえないため息に近い空気が二組の教室を包む。


 五月の中間考査が終了した。

 めぐりは古文の解答用紙を後ろから受取り、前の席へ自分の分と合わせて渡す。

 ちらりと横に座る孝蔵こうぞうの口元が目に映った。

 口角が少しだけ上がっている。

 どうやら古文の出来はまずまずであったようだ。


 お疲れさまでした。


 もちろん声に出さない。

 心の中でささやいた。


 二年生になって初めての試験である。

 一年生のときと違い、授業中はとにかく黒板を向いて集中しないと孝蔵を意識してしまうから、結果として今回の中間考査は満足いく答案に仕上げられたと思う。

 ただやはり化学が今ひとつの出来であったことが、悔やまれるめぐりである。

 高梨先生は束になった答案用紙を教壇でトントンとそろえながら、教室内を見回した。


「どうだ、みんな。

 きっちりとできたか?

 今日は各委員会がこのあとあるから、委員のみんなはご苦労だが出席をしてくれ。

 よし、室長、終わろうか」


 しゅうが立ち上がる。


「全員、起立」


 ガタガタと椅子の鳴る音。


「礼っ、ありがとうございました」


「ありがとうございました!」


 実に解放感あふれる、みんなの挨拶であった。


 ~~♡♡~~


 めぐりは自宅で夕飯の準備をしている。

 当然と言い切れば語弊ごへいがあるが、めぐりはクラスのなんらかの委員には選ばれてはいない。

 だから放課後はまっすぐに帰宅した。

 かおるの帰宅は午後七時だ。

 これは小学生のころから変わらない。


 メインのおかずは必ず薫が作る。

 これもずっと同じである。

 だから副菜のサラダや煮物など、あまり手のかからないおかずはめぐりが作っておく。

 洗ったレタスやトマトを丁寧に包丁で刻む。

 手慣れたものだ。


 めぐりはリズミカルな包丁の音を耳にしながら、以前高梨先生から言われていたことを思い出した。

 大学への進学をおかあさんと相談すること。

 包丁の音が止まった。


 大学へ進学したいかと問われれば、無論進みたいと答える。

 現代文学について、より高度な知識を得たいとの欲求があるから。

 ただ奨学金制度を使うにせよ、アルバイトである程度まかなうにしても、四年間の学費は重くのしかかってくるであろう。


 それに大学を卒業して、どんな職業に就きたいのか。

 就職活動では結構なお金がかかると新聞で読んだ。

 めぐりは将来、どういう職業につきたいのかなどと考えたこともない。

 それであるならば、高校卒業で就職しても大きく変わることもないのでないか。

 むしろ高校から推薦してもらうほうが、少しはよい会社へいけるのではないか。

 そうすれば毎月家にお金を入れられる。


 だから、わたしは進学しない。

 諦めるのではなく、自分の意思としてそうしたいと思う。


 めぐりはふと我に返り、再び野菜を切り始めた。


 ~~♡♡~~


 結局めぐりは薫に進学の話を今夜もできず、夕食をふたりでる。

 めぐりは試験が上手くできたことを、いつになく饒舌じょうぜつに語った。

 大学進学の話題を避けたかったから。


 母親として敏感に不信感を抱き、お風呂から上がっためぐりに薫が訊く。


「どうしたの、めぐ。

 身体の具合が悪い?」


 薫は洗い物をしながら、パジャマ代わりのスエット姿で髪をタオルで拭くめぐりの顔をのぞこうとする。


「それとも学校で何かあったの?

 もしまた、イジメられたりとかしてるんだったら」


「大丈夫よ、おかあさん。

 わたしはクラスで、うまくやってると思うから」


 仲良くお弁当をつつく友人が、瑠奈るなひとりだけであるなんて、言えない。

 困らせるだけだから。

 薫は水きりにコップを並べ、うなずいた。


「そう、ならいいのだけど」


 やはり母親は誤魔化せないな、とめぐりはワザと髪をくしゃくしゃにタオルでこね回す。


「じゃあ、勉強するから部屋へもどるね」


「うん。

 あとでホットミルクでももっていこうか」


「お願いします」


 めぐりは顔を見られないように自室へ入っていく。

 後ろ姿に目をやりながら、薫は小さくため息をついた。


 自室にもどると遮光カーテンが少し開いているのが気になり、めぐりはカーテンを引き直そうとして何気なく窓から外を見た。


「あっ、きれい」


 団地の四階から夜空を仰ぐと、満天の星に少し欠け始めているが、淡く輝く満月が浮かんでいる。

 月のクレーターまでもがはっきり確認できるほど、大気が澄んでいるようだ。


 めぐりは窓ガラスをそっと開け、カーテンの幕から外へ顔を出す。

 風はない。

 遠くから自動車のエンジン音が耳をくすぐる。


 来年もクラスは変更ない。

 卒業式を迎えるまで同じクラスメートと学びで勉学に励むのだ。


「あと一年と十か月か」

 

 めぐりは口にした。

 この満月を孝蔵こうぞうと肩寄せ合って静かに見上げることは、絶対にない。

 どんなに願ってもそんな奇蹟は起きっこない。

 卒業すれば二度と会うことはない。

 孝蔵は大学へ進学し、めぐりは就職するのだから。


 神さまはどうした気まぐれか、それとも生涯に一回きりのご褒美か、孝蔵と同じ教室にしてくれた。

 そのうえ、夢にまで見た隣同士の席まで用意してくれた。


 それだけで充分です。

 これから先、どんなにつらいことがあったとしても、この二年弱の時間が心の支えになってくれると思います。

 孝蔵くん、この月の光を届けたいです。

 涙が浮かぶほど美しい月光です。

 ゆっくりと欠けていくけど、気がつけばまた同じ位置に清らかな白き姿を現してくれます。

 わたしはずっと孝蔵くんが大好きです。

 こんなわたしが好きでいては、だめですか?


 めぐりは潤んだ瞳に、孝蔵の姿を思い浮かべていた。

                                  つづく

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