三話 「年越」
夏から秋へと季節は移り、団地をとりまく木々や花壇に咲く花も、種類が変わっていく。
めぐりはまた新しい小説の構想を練っていた。
書きたいストーリーは、枯れない泉のように湧いてくる。
すべてを書くだけの時間はない。
だから取捨選択をせねばならない。
贅沢のようだけど、めぐりはそんなときに少し悲しくなる。
物語にならなかったアイデアが、愛しくて可愛そうになるのだ。
だからそういうアイデアはパソコン上ではなく、高校時代から使っているノートに、父の使った万年筆で書きとめておく。
ごめんなさい、と謝りながら遺していく。
秋は気がつけば空の彼方へ去っていき、今度は待ち構えていた冬のシーズンが寒気を伴って静かにやってきた。
めぐりはどの季節だって、大好きであった。
四季のある国に生まれて、本当によかったといつも思う。
季節の移ろいがあるからこそそれを背景に、新しい小説が書けるともいえた。
雪が降って、地面を白く染める。
その下ではじっと寒さを耐えていた草木のつぼみが、次には緑に大地を変える。
太陽が容赦なく照りつける時季には、目の覚めるような色とりどりの花が土地を覆う。
大気に和らいだ風が舞うころには、華やいだ心を鎮めるように黄色や落ち着いた赤い葉が、静かに積もっていく。
めぐりは団地の道路で、カサカサと音を立てる銀杏の葉を慈しむように眺めながら仕事場へ向かった。
どんな会社へ入ったのだろう。
営業職だったら、おしが強そうだから向いているかもしれません。
どんな手練手管を使うよりも、孝蔵くんのあの研ぎ澄まされた刃物のような目で見られたら、百戦錬磨の社長さんだって思わず「う、うん、きみが薦めるのなら間違いないかな」って。
めぐりはクスクス笑う。
会いたいなあ。
道着姿はとても格好良かったけど、スーツを着てネクタイをしめたサラリーマンの孝蔵くんも拝見したいのです。
その格好よさに女性たちが言い寄ったら、ちょっぴり悲しいけど。
めぐりは眉を八の字にしながら、少し下がった気温にブルっと震えて地下鉄の駅へ向かった。
~~♡♡~~
今年の冬は例年以上に寒波に見舞われ、ナゴヤでも積雪する日が多かった。
大きな病気にも
いよいよ新しい年が始まる。
どんな年になるのか、もちろん期待したい。
特にめぐりは、初めて小説を新人賞に応募した結果がわかるのだから。
不安感がないと言えばウソになる。
だけどワクワク感のほうが勝っている。
だめで、もともと。
初回からプロの編集者、その前に下読みがあるにせよ、うならせるなんてできるわけがない。
だから果報は寝て待て、だと思っている。
入賞するかどうかよりも、もっと書きたいという欲求が首をもたげている。
とにかくまずは一番の理解者である
瑠奈はこれまですべての作品を、手放しで褒めてくれたわけではない。
一読者として、物足りなかった点やご都合主義に走っている箇所など、歯に衣を着せずに物申してくれる。
だからこそ、めぐりは絶大の信頼を寄せているのだ。
今回応募した作品は、二回ほどダメ出しをもらった。
磨きに磨いた小説なのだ。
今度はどんなストーリーにしよう。
すでに、次の物語を練りだしていた。
〜〜♡♡〜〜
元旦は薫と団地近くの神社へ初詣に出かけ、三日には帰省した瑠奈と遊びに町へくりだした。
「あそこの新人賞って、一次選考や最終選考の発表がないらしいな」
「はい、そうなんです。
四月に発売になる五月号に、いきなり結果発表なんですよ」
ふたりはメーエキと呼ばれるナゴヤ駅までおち合い、イタリアンのお店でランチを楽しんでいる。
お正月といえど、このごろは商売優先の店舗が多い。
瑠奈はお皿に盛られたボンゴレパスタを器用にフォークで巻きながら、口元を尖らせた。
めぐりはカルボナーラのベーコンをフォークの先に差し、口に運ぶ。
「それでね、
次はこんなお話を書きたいなあ、って思ってます。聴いてくれますか」
「もちろんさ、
今は大学院で数字漬けの毎日だろ。
クラブ活動だって、やってないしな。
唯一の心の慰みは、ラッパを騒音公害のように研究棟の屋上でで吹き鳴らすか、奈々咲の小説で心を浄化させてもらうしかないんだからな。
で、今度はどんなストーリーよ」
眼鏡の奥の大きな瞳を爛々と輝かせながら、瑠奈は身を乗り出した。
~~♡♡~~
市役所と自宅の往復の毎日。
道路の片隅に残っていた土混りの雪も、徐々に液体から気体となって空へ帰っていく。
また季節が脱皮する。
この変わり目だって、よく観察していると妙に面白いのです。
めぐりはもう二十年以上住まう団地を見上げながら、地下鉄の駅へ歩く。
これまで色々とあった。
これからも、色々な出来事があるだろう。
無機質なコンクリートの塊かもしれないけれど、団地はどんなときでも「気をつけていってらっしゃい」、「お疲れさま。さあ、ゆっくりと休んで」と温かな言葉をくれる。
ソメイヨシノの蕾がはじけるように、柔らかくそれでいて心に染みる花を咲かせてくれる季節を迎える。
「おかあさん、行ってきます」
ベランダで洗濯物を干していた薫は、スーツ姿の娘の背に声をかけた。
「今日からまた新人さんが配属になるのでしょ。
先輩、ファイト!」
めぐりはパンプスを履きながら、振り返った。
「わたしに、お任せください」
ニッコリと微笑みながら、右手でVサインを作る。
薫もVサインを返す。
ドアを閉めて出勤していく姿に、頼もしさを感じる。
生真面目で決して自分を主張することなく、むしろ他人の痛みまでわがことのように胸を痛める性格が、心配でたまらなかった。
だけどそんな不安は、必要なかったということだ。
めぐりは見つけたのだ、自分自身の手で。
心に堆積していく悲壮感を融かしていくすべを。
小説を書くこと。
めぐりにとって、それが何よりも必要であったのだ。
薫は夫に語りかける。
あのときの選択は間違いじゃなかったわね。
親に対して口ごたえひとつしたことのないあの子が、固い決心を、誰にも
あなたがその場にいたら、真っ先に賛同したかもね。
「当たり前じゃないか。
めぐはきみとぼくが神さまから授かった、唯一無二の、この身に代えても守らなきゃならない存在なのだから。
めぐが決めたのなら、あとは応援してあげよう、きみとぼくで」
そうね、その通りよ。
小説家だなんて職業として生計を立てていくのは無理でしょうけど、公務員として今ではわが家の稼ぎ頭ですもの。
趣味でいいの。
めぐが毎日を、笑顔で過ごすことができるのなら。
薫はベランダから春の空を見上げた。
~~♡♡~~
四月の半ばに書店に並ぶ『月刊BUNGEI・五月号』を、めぐりは団地近くの本屋に予約してから帰宅した。
この号だけは、買うと決心していたから。
落選だっていいの。
わたしの初めてチャレンジした証として。
ソメイヨシノはすでに葉桜へと変わっていた。
夕暮れの団地からは行き交う自動車の排気音に混じるように、子どもたちのにぎやかな声が聞こえる。
グレー系のパンツスーツにショルダーバッグをかけて、散策するようにゆっくりとした足取りで自宅まで歩いている。
沿道脇には花壇が設けられており、色とりどりにチューリップが、こちらは満開であった。
「ただいま」
めぐりは玄関の鍵を開け、ようやく息をついた。
薫はまだ帰ってはいない。
今夜は春野菜の煮物に、フィッシュフライの予定だ。
スーツ姿からスエットに着替え、今では日課になっているパソコンのメールをチェックしてから、薫が帰宅する前に野菜を切っておくつもりだ。
メールは瑠奈からくることが多い。
パソコンを立ち上げて、アウトルックをクリックする。
読み込まれたメールが表示される。
「二井原さんから催促のメールが。
あれっ?
これは」
一件、今まで受けたことのない差出人の名前がある。
いや、正確にはその差出人名は、よく知っている。
そしてメールのタイトルに顔を近づけた。
めぐりの表情が固まった。
「『月刊BUNGEI第八回文学新人賞』の入選についてのお知らせ」
差出人は『
つづく
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