二話 「差入」
土曜日の午前中。
明日の大会へは二組のチームが参加する。
男子チームと女子チームだ。
弓を持つ左手の親指の付け根は、発射する矢羽の擦過によりタコになっている。
一本打つたびに神経が摩耗していくが、孝蔵の鍛えられた精神力は無尽蔵であった。
梅雨空は
その分、大気は尋常ではないほどの湿り気を帯びており、
ようやく午前中の練習に休憩が入った。
孝蔵は
「お疲れさま」
突然背後から聞こえる声に、孝蔵は振り向いた。
「し、
「練習を見にきちゃった」
この頃では、教室内でもたまに話をするようになっていた。
体育大会は無事に終わったが、秋には文化祭がある。
文化祭は代議員の恋歌が主となるが、体育委員の孝蔵も補佐として会議等に参加することになるからだ。
「どうしたの、今日は。
生徒会でもあったのか」
孝蔵は首に巻いたタオルで額の汗をぬぐう。
「いいえ、今日はおやすみよ」
「それなら、なにか用事でもあったのか」
恋歌は孝蔵の目の前に黄色いポーチと、シルバーのボトルを差し出した。
「えっ?」
「差し入れよ。
迷惑だったかな」
ドギマギした表情の孝蔵に、恋歌は顔を傾ける。
「い、いや、迷惑じゃないけど。
わざわざ俺に持ってきてくれたのか」
「うん」
ニコリと微笑む恋歌。
まるで美しいバラが開花するように、甘い香りが孝蔵をつつんだ。
「明日の試合、二組の、というよりも我が桔梗が丘高校の弓道部員として、がんばってねってことです」
「いや、そのう、俺こんなの慣れてなくて」
「知ってまーす。
だから押しかけてきちゃいました」
ペロッと可愛い舌をのぞかせる。
「お昼休みはおうちから、お弁当を持ってきてるかなって考えたけど。
三船くんの頑丈な胃なら大丈夫って思ったの」
「いや、今日は近くのコンビニで買うつもりだったから」
「やったぁ!
それならよかったら召し上がってください」
「ああ、ありがとう」
孝蔵は受け取った。
「これ、かなり重いんだけど」
「えへへ。
実は私の分も、一緒に入ってるの」
孝蔵は道場を振り返った。
「そろそろ休憩時間だからな。
もし志条坂さえよかったら、どこかで一緒に食べるか」
「うん」
道場から「じゃあ昼休憩にはいるぞ。一時間なあ」と二年三組の部長の声が聞こえる。
ふたりは校舎の中庭にあるベンチへ足を向けた。
孝蔵の額から流れていた汗も小休止のようで、タオルをまた首にまわした。
「三船くんって、いつもお昼は
「ああ。
一年生のときからずっと、ヤツとしか昼ごはんは食っていないな」
孝蔵はベンチの隅のほうに浅く、黒袴の腰を降ろす。
恋歌はわざと孝蔵とくっつくように、ふわりとスカートをゆらめかせて隣に座った。
孝蔵は、さらに腰をベンチぎりぎりまでずらした。
「あまり近寄ったら、迷惑?」
恋歌は整った眉根を曇らせた。
「い、いや、そうじゃなくて」
「あっ、もしかしたら、彼女さんに遠慮してるのかな」
恋歌は上半身を曲げて孝蔵の顔をのぞき見る。
「俺には彼女なんていない。
そ、それに迷惑なのではなくて、慣れていないだけだ」
不貞腐れたような声音に、恋歌はクスリと口元をほころばせた。
そんなちょっとした表情の変化にも、孝蔵の心臓は音を立てる。
「ごめんなさい。
変なこと言っちゃって。
だってせっかくピカイチの秀才にして武道家の三船くんと、こうしてお昼を一緒にできるなんて、私は嬉しいな」
いや、ちょっと待った。
嬉しいなって、どういう意味なんだ?
「三船くんって、嫌いな食べ物ってあるのかな?
私はないものだから、勝手に作ってきてしまったんだけど」
孝蔵は頭を振った。
「いや、俺は好ききらいはない。
というよりも、口に入るものであれば抵抗なくいただくかな」
「良かったぁ。
私も男子にお弁当を作ったことなんて今までないから、昨夜からさんざん悩んだの。
だから、今回は定番のお弁当です」
恋歌は紺色のスカートの腿に、ポーチから可愛い柄のナプキンを敷き、お弁当箱をふたつ乗せた。
ひとつは大きく、もうひとつはいつも恋歌が使う小ぶりなお弁当箱だ。
「はい、袴が汚れないように、これを敷いてください」
言いながら綿のナプキンを孝蔵に渡し、大き目なお弁当箱を差し出した。
「お、おう、ありがとう」
慣れぬ手つきでナプキンを腿に敷き、お弁当箱を受け取った。
「お口に合わなかったら、ごめんね」
照れくさそうに恋歌は長いまつ毛を伏せる。
孝蔵は蓋を開いて中味をのぞいた。
「これ、志条坂が作ったのか?」
コクン、と恋歌はうなずいた。
お弁当は白いご飯の上に鶏ソボロと錦糸玉子が乗り、ウインナーとキャベツの炒め物、手作りらしいコロッケ、さらにプチトマトとブロッコリーにはマカロニサラダがドレッシングと一緒にからめてあった。
「美味そう!」
孝蔵は思わずお弁当に両目を広げた。
「あっ、コロッケは味がついているから、そのまま召し上がってね」
孝蔵は「いただきますっ」と割り箸を両手に挟んでお弁当箱に頭を下げる。
パキッと小気味よい音を立てて割り箸を分割すると、まずはコロッケを頬張った。
冷めた揚げ物であるのに、ふくよかな玉葱とジャガイモの風味が鼻を心地よく抜け、さらにミンチに旨味が舌を唸らせる。
「う、美味い!」
恋歌は姉のような表情を浮かべ、一気にお弁当をかけこむ孝蔵を見ている。
「よかった、三船くんのお口に合って」
「おい、志条坂、きみも早く食べろ。
これは、マジで美味いぞ!」
体力を消費して食欲はアップする。
それにもまして、精神力を駆使するほうがお腹は減るのかもしれない。
つまり脳がそれだけエネルギーを消費しているのだから。
孝蔵は横にクラスメート、それもとびっきりの美形の女子が座っているのも忘れ、舌包みをうつ。
「そんなにあわてないで、三船くん。
よかったら私の分も召し上がって」
はたと孝蔵の手が止まった。
ちょっと待て、俺。
いくらお腹が減っていたとはいえ、この食いかたはまるで子どもではないか。
もしかして俺は、とても恥ずかしい行為をしているのではないか。
志条坂は、なぜそんな笑みを浮かべて俺を見ているのだ。
カッと顔が熱くなる。
「あらっ、どうかした」
のどに詰まらせたのかと、恋歌はお茶の入ったシルバーのボトルを差し出した。
すっかり固まってしまった孝蔵。
「顔が真っ赤よ。
気分が悪くなった?
お弁当のおかずは火が充分通ってるはずだから、腐敗してるはずないのだけど」
眉根を寄せた恋歌の顔がわずか五センチ程度まで近寄ってきて、孝蔵はあわてて顔をそむけてしまった。
「い、いや、違う。
気分はいいし、弁当は美味いし」
「良かった。
私のお弁当のせいで明日の試合へ出場できなくなっちゃた、なんてことになったらみんなに申し開きできないもん」
ホッと息を吐き、恋歌は自分の膝の上に置いた小さめのお弁当箱のふたを取る。
南のグランド、北の野球場から練習する運動部員たちの声が校舎の上から、まるで孝蔵をひやかすように降ってくる。
俺は志条坂とはただのクラスメートであって、ひやかされるような間柄じゃねえぞ!
キッと空をにらむ。
そこになぜか、周のにやけた顔が浮かびあがていた。
つづく
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