三話 「進言」

 気象庁の梅雨明け宣言を待っていたかのように、太陽が本領を発揮し始めた。

 気温が先月から驚くほど上昇している。

 団地内にある花壇では、ケイトウの寄せ植えがオレンジ、イエロー、真紅の花をグリーンの敷布の上で鮮やかさを競っている。


 朝七時半過ぎ。

 めぐりは自転車のサドルに、濃紺の制服スカートをひらめかせてまたいだ。

 六月末の期末考査の結果はすでに発表になっており、なんとめぐりは二年生文系で三位であった。

 一位は不動の孝蔵こうぞう

 二位は恋歌れんかが前回四位からランクアップしていた。

 しゅうはなぜか、今回は十五位と後退していた。

 麻友子まゆこも上位十五名には入らずの結果であった。

 ここへきて麻友子は、急激に成績が落ちてきている。

 授業中も上の空で、先生から注意を受けるのもしばしばみられた。


 理系クラスでは、これも変わらず一位を瑠奈るなが獲得していた。

 めぐりはいつものように、学校へ向かってペダルを漕ぐ。

 すでに肌をチリチリと陽の光が射してくる。


 昨夜も新しい物語の続きを書いた。

 今回は処女作の続編にした。

 やはり五万文字程度の中編では、想いがまだすべて書き切れていないことに気づいたから。


 瑠奈は会うたびに「ねえ、奈々咲ぃ、まぁだぁ? ウチをこんなにらせるなんて意地悪な友だちだよう」などと、本気とも冗談ともとれぬ口調で催促してくる。

 その都度、「ごめんなさいっ。わたしは二井原にいはらさんに意地悪するつもりなんて、これっぽちもないのです。だから、もう少しだけ待っていてくれますか」と真剣な表情で訴えるのであった。


 昨夜のこと。

 夕食後リビングでめぐりはスエットのいずまいをただし、かおるに告げた。


「おかあさん」


「うん、どうしたのあらたまって」


「お話ししたいことが、あるの」


 いつになく真剣な眼差しのめぐりに気づき、薫はキッチンに立つ。


「いいよ、おかあさん、聴くから。

 じゃあ冷たいカフェオレでも飲みながらにしよっか。

 すぐ用意するから、待って」


 ベランダのガラス窓は開け放してあり、涼やかな微風がリビングに舞い込む。

 カチャカチャとグラスの音が、微風とダンスを踊る。


「はい、お待たせ。

 ちょっと甘かったかも」


 薫はテーブルの上に、ふたつのグラスとストローを置いた。


「あのね、今回の期末考査でわたし、文系クラスで三位だったの」


「ええっ!

 すっごーい。

 やるじゃない、めぐ。

 毎晩遅くまで頑張ってるものね。

 あとで一緒におとうさんに報告しなくちゃ」


 薫はストローを持った手を嬉しそうに振る。


「再来週だったっけ、学校での三者面談は。

 おかあさん、なんだかスキップしながら教室へ行っちゃいそうよ」


 めぐりは表情を変えずに、一度のどを鳴らした。

 薫は笑顔のまま、首を傾ける。


「もしかして、トーダイとかキョーダイを狙いたいからって相談かしら。

 うーん、めぐと離れるのはおかさん寂しいけど、いけるなら頑張ってみる?」


「違うの」


「アメリカ留学は、ちょっと心配」


「あのね、おかあさん。

 わたし決めてるの」


「うん」


「わたし、高校を卒業したら大学へはいかない。

 就職します」


 薫は遊び道具をいきなり奪われた小さな子どものような表情になった。

 めぐりは、それが辛いと思った。


 おかあさんから笑顔を奪う権利は、絶対にない。

 だけど、これだけはわたしのことだから。


「ちょ、ちょっと待って。

 どうして?

 あんなに勉強を頑張っているのに。

 それは大学へ進学するためなのでしょ」


「違います。

 わたしは、今できることに一生懸命取り組んでいるだけ。

 大学へ進学したいから勉強しているのじゃないの」


「わかった。

 めぐの言いたいことはおかあさん、わかるよ。

 だけど、桔梗が丘ききょうがおか高校でその成績なら、すくなくともメーダイくらいは射程圏内なんでしょ」


「うん、高梨先生にもそう言われた」


「じゃあ、なぜ」


 薫はそこで気づいた。


「めぐ、もしかして、進学してかかる学費のことを心配してるのね。

 それなら安心しなさい。

 おとうさんがそのために、多くはないけどお金を遺してくれてるから」


「おかあさん、わたしね。

 正直に言うと、今まではね、これ以上お金をわたしに使っていただくのは、申し訳ないなって思っていたの」


「なにを他人行儀な。

 わたしは、おとうさんもだけど、めぐがしあわせになってほしいから貯金してるのよ。

 大学もそう、成人式にはちゃんと着物も準備して、それにいつかお嫁にいくときにも、恥ずかしくないようにって」


 薫の顔から笑みは消え、真剣な眼差しで語りかける。


「ありがとうございます、おかあさん。

 わたしは今でも、充分過ぎるくらいしあわせだよ。

 こうしておかあさんと一緒に暮らせるのだから。

 おとうさんがいなくたって、わたしは寂しくないの。

 だって、こんなにもおかあさんが、めぐりを愛してくれているから」


 めぐりは一言一言を、噛みしめるように言葉にする。

 ツッと涙がめぐりの目尻から頬を伝う。


「だけど、わたしが大学へ進学しないのは、もっと別の理由があるの」


「理由?」


「はい」


 めぐりは心の奥にしまっていた、宝石のように大事な気持ちを言の葉に変えた。


「わたしは、物語を書きたいの。

 ほんの一握りの選ばれたひとでさえ次はないかもしれない、小説家を目指したい」


 薫は口を開けたまま、めぐりが初めて本心を打ち明けることに驚きを抱いた。

 小さいころから、反発したことなど記憶にない。

 思春期を迎えても、反抗期さえ忘れているかのようだ。

 その娘が自分の将来を決めようとしている。

 小説家になるなんて、空の雲をつかみたいと夢見るのと変わらないと思う。

 親として、ここはさとさなければいけない。

 それに大学へ進学して学問を修めながらでも、目指すことはできるはず。


「だけどね、めぐ。

 それだったら大学へ進んでからでもいいじゃない。

 あなたには、それだけの学力があるのだから」


 めぐりは目をそらさず、瞬きさえ失念しているかのように、薫に真剣な眼差しを向ける。


「おとうさんは、わたしのために小説家の夢を諦めたって聞きました。

 わたしがおとうさんの遺志を継ぐなんて、大それたことかもしれない。

 でもね、おかあさん。

 わたしにとって小説家を目指すことは、定められて道じゃないかなって。

 ずっと悩んで考えてだした答なんです。

 わたしが書く小説でたとえひとりでもいい、琴線に触れて、読んでよかったと思ってもらえればいいのです。

 だから大学へ進学して、のんびりと小説でも書いて記念出版できればいいかな、なんて甘い気持ちで目指したくない。

 わたしは、真剣に作家を目指してみたいの」


 リビングにそよいでいた風が止まった。

 薫は知っている。

 めぐりはこうと決めたら、絶対にやりぬく覚悟を持っていると。


 あなた、私はめぐりの決意をひるがえさなければいけない?

 親としてどう答えたらいいの?

 そんな馬鹿げた夢なんて見ないでって言えばいい?

 教えて、あなた。


 薫の心に大切にしまっている夫との会話が、水面からそっと顔をのぞかせた。


「ぼくが小説家を諦めた理由かい?

 ははっ、そんなに大げさな根拠じゃないさ。

 だってぼくにはきみと、そして生まれてくる子どもが、小説家をめざすよりもずっと大切になったから。

 それだけだよ。

 家族のために夢を諦めるんじゃない。

 家族がしあわせになること、それがぼくの夢に変わっただけなんだ。

 ああ、夢じゃあ、いけないね。

 現実にしあわせになってもらわないと。

 だからね、こらからはさ。

 この世にぼくらの子どもとして生まれてきてくれる、大切な宝物のためだけにお話を作ろうって決めたんだ。

 毎晩ぼくの作るお話を子どもに寝物語してあげることが楽しみなんだよ。

 この世にたったひとつだけの、ぼくが子どものためだけに作った物語をね」


 そう、あなたは笑顔で教えてくれた。

 あなたがめぐりにお話ししてあげた物語。

 めぐりは毎晩楽しそうに聴いていた。

 めぐりにしあわせを注いでくれたわ。

 あなた、めぐりが今度は別のひとをしあわせにしたいのだそうよ。

 めぐりが書く物語で。

 応援してあげてもいい?

 もしあなたが生きてこの場所にいたら、笑顔で「もちろんさ」と言ってくれるわね。


 薫は目を閉じてうつむく。

 そして、顔を上げた。


「めぐり、あなたの想い、おかあさんは確かに受け取ったよ。

 わかった。

 あなたがそこまで考えているのなら、おかあさんは応援することがこれからの義務、いえ、権利ね。

 いいよ。

 大学へ行って遊び半分で過ごすよりも、夢を追いかけようと決めた我が娘を、おかあさんは精一杯応援するよ」


 薫はめぐりの直球を母として、親として受け止めた。

                                  つづく

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