五話 「真実」

 俺はその子が、ずっと気になっていた。

 小学生の頃、たしか五年生のときだった。


 クラスを横断した対抗リレーのとき、その子の存在を初めて知った。

 物静かな印象でもちろん会話なんてしたことはなかったけど、俺はその子が一生懸命練習する姿を見て、こんなにも可愛い女の子がいるのなら、転校してきて良かったと思った。


 走ることが不得手らしく、リレーチームの他のメンバーはよってたかって小馬鹿にしてたけど、俺にはどうすることもできなかった。

 そのころの俺は、弱虫だったから。

 下手にかばって、イジメの対象とされるのが怖かった。

 今でも後悔してる。

 なぜあのときに勇気を持てなかったのかと。


 運動会本番のとき。

 俺はアンカーで、その子は四番手。

 バトンを握りしめ、歯をくいしばって走ってくる姿に、俺は心から声援を送った。

 頑張れ! って。

 バトンを受け取ったとき、よく頑張ったと頭をなでたかったけど、俺の役目はそうじゃない。

 この受け取ったバトンを持ってゴールすること。


 絶対に、俺はこの子を泣かせちゃいけない。

 今のままではビリになるのは明らかだ。

 だから託されたバトンをギュッと握りしめ、渾身の力で走り抜いた。

 トップにはなれなかったけど、かろうじてビリッけつにはならなくて済んだ。


 あの子の想いを、俺は確かに受け取ったと安堵した。

 俺は女の子と話すのは得意じゃない。

 だけどどうしてもお礼を言いたくて、お昼休みに恥ずかしさを堪えてその子の姿を探して校内を走りまわった。

 たった独りっきりでお弁当を食べている姿を見つけたとき、心臓が爆発しそうなほどドキドキしていた。

 まともに顔を見るのは恥ずかしくてできなかったけど、お礼だけは伝えることができたんだ。


 俺は、このとき初めて女の子を好きになってしまった。


 それから学校の廊下ですれ違ったときにも、視界に入った瞬間に心臓が高鳴ってしまって、そっぽを向かざるをえなかった。

 中学もその子と一緒だ。学区が同じだから。

 クラスは一度も同じになれなかったけど、かえってホッとしたんだ。

 なぜって?

 一緒のクラスだと、勉強どころじゃなくなっちゃうから。


 俺は中学時代から、将来絶対に、本の編集者になりたいって思っていたから、とにかく勉強して有名な大学から大手の出版社へ入社するって決めていた。

 俺は書籍が、大好きだ。

 創作能力はまったくないけど、編集者になって凄い本を作家と一緒に出したいって思っていたんだ。


 その子が県下でもトップクラスの桔梗が丘ききょうがおか高校を選んだって伝え聞いたときに、俺はガッツポーズをとった。

 俺も一緒の高校を受験するつもりだったから。


 高校では迷うことなく弓道部へ入部した。

 これは俺の爺さんが弓道の達人で、幼いころから色々と教えてもらっていたからなんだけど。


 一年生のときには別のクラスだったけど、その子は自転車通学で弓道場の横にある自転車置き場を利用していることは知っていた。

 だから毎日早朝から弓道場で練習しながら、その子が通学してくる姿をドキドキしながら待ちわびていた。

 もちろんその子は俺なんかには目もくれず、いつもさっさと教室へ行ってしまっていたけど。


 それでも嬉しかった。

 姿を少しでも見ることが出来たら、今日も一日頑張るぞって元気が出た。


 驚いたのは二年生に進級したとき。

 だってその子と同じクラスになって、しかも席が隣同士になったのだから。

 神さまに何度もお礼を言った。

 こんな俺にも神さまは微笑んでくれたんだって、本当に嬉しかった。


 その子はとても勉強熱心で、俺のことなんて眼中にないって感じで授業を受けていた。

 ここで負けちゃ男として格好悪いなって気持ちと、もちろん大学へ行くために勉強はかなり頑張った。


 一度でいいからお昼ごはんを一緒に食べたいな、なんてやましい気持ちを抱いたりもした。

 まあ、思春期の男子高校生だからそれは仕方ない。


 だから、あのときは本当に嬉しかった。

 弓道の大会があった日のこと。

 その子はどうした手違いがあったかわからないけど、午前中の予選には姿を見せなかった。


 ああ、やはり俺なんてしょせんはただのクラスメートのひとりにすぎないんだなって、少し落ち込んでいた。

 だから他の女子が作ってきてくれたお弁当も、ほとんど喉を通らない状況だった。


 みんなとお弁当を食べ終えようとしたころだ。

 雨に濡れたまま、こちらへバッグを抱えて走ってくるその子の姿を発見したときの驚きと喜びは、とても言葉にはできないくらいだった。


 来てくれたんだ!


 落ち込んでいた気持ちが、とたんに蒸気を吹き上げて回転し始めた。

 でもなぜ持っている傘をささなかったのか、髪から水滴が滴っている。

 俺を応援に来て風邪などひかれたら大変だから、気がついたらタオルを差し出していた。


 理由がわかったときには、俺は心が震えた。

 俺のために、いや、正しくはみんなのためにだけど、作ってきてくれたお握りを早く届けたかったためらしい。


 濡れていようと腐っていようと、構わやしない。

 彼女が作ったお握りは、俺が全部平らげてやるんだ。

 だから遠慮なくいただいたんだ。

 そうしたら、これがとんでもなく美味しいんだ!

 お米の炊き具合、塩加減、そして手間をかけた具材。

 今まで食べてきた、どんな料理よりも絶品だった。

 お握りだけだよ、作ったひとの手と心の温もりがこめらている食べ物って。

 俺の胃は驚き、底なしのように欲したんだ。


 きっとみんなのためにって、心をこめて握ってくれたに違いない。

 そんな優しい気持ちに、俺は思わず泣きそうになった。

 その子の笑顔は天使だ。

 神さまがこの世に遣わした、天使そのものだ。


 いつか、好きだって告白しようかななんて不埒ふらちな考えを押しこめるのに、どれだけ苦労したことか。

 小学時代からずっと見てきたその子のことを想わなかった日は、一日たりともない。

 これは誓って言える。

 こんなにもひとりのひとを好きになるなんて、俺っておかしいのかな。

 三年生のときも同じクラスメートだったんだけど、残念ながら席は遠く離れてしまった。


 それに受験の準備があるから、実質弓道部へはほとんど顔を出せない。

 弓道場から、もう自転車置き場でその子を見られなくなるのは寂しかった。

 教室は一緒だけど、ジッと見つめていてストーカーじゃないかと嫌われるのも恐かったから、とにかく勉強に集中した。


 その子は文系でも常にトップクラスの成績だったから、てっきり大学進学をするんだって勝手に思っていた。

 だけど家庭の事情らしく、就職するって聞いたときに俺は悩んだ。

 ここで告白しなきゃ、もう会えなくなるんだって。

 あなたが好きです! 俺と付き合ってください! なんて申し出て、あっさりと「ごめんなさい」と言われたほうが、かえってスッキリするんだろうなあ、なんてブルーな感情に陥っていた。


 だから卒業式の日、その子から挨拶されたとき、俺は想いの丈をこめて告白する代わりに握手を求めた。

 それが精一杯の感情表現だった。

 もしかしたら後で気持ち悪いって嫌な顔されるかもしれないけど、俺は自分の気持ちに正直に行動した。


 大学は国立ナゴヤ大学の文学部へ進んだ。

 ここで学問を修めて、でっかい出版社へ入社するんだって決意を新たにした。

 友人のしゅうは二年生の半ばあたりから様子が変になって、水泳も勉強も手がつかなくなっていた。


 これは後から本人に聴いたのだけれど、どうやらそのころに恋の病にかかっていたらしい。

 同じクラスの志条坂しじょうざかを好きになってしまったと。


 そういえば、俺と志条坂は体育委員、代議員としてつるむことが多かったし、大会前にお弁当を作ってきてくれたこともあったけど、それをどうやら見られていたらしい。

 笑っては周に申し訳ないけど、お互いに男女間の恋ってわけじゃなかったんだな、これが。


 俺と志条坂は男女の付き合いではなく、いってみれば同志としての関係だった。

 まあ、あれだけの器量よしだから一緒にいて悪い気はしなかったけど。

 でも俺は、異性として見てはいなかった。


 結局、周は浪人してしまった。

 けど、そこから凄いのが奴だ。

 志条坂がケーオー大学へ入った後を追って再度猛勉強して、一年遅れで同じ大学へ進んだのだから。

 それから意を決して告白したら、実は志条坂も周にずっと想いを寄せていたんだ。つまり恋心を密かにいだいていたらしく、泣きながら「嬉しいっ」て抱きつかれたんだって。オノロケを聞かされる身は、辛かったなあ。


 そう、志条坂は大学時代からエッセイを書き始めて、今では人気のエッセイストだ。

 あれほどの美人だから、テレビなんかにもよく出演してるな。

 うちの出版部門でも、彼女の本は欠かせないって言ってる。

 今日もこの式典に、来賓として招待されている。

 あとでゆっくりと、昔話に花を咲かせてみようかな。


 周は俺の親父と同じメガバンクに入行して、バンカーになった。

 今でもあいつらは、仲良く付き合っている。近々、婚約するって周は満面笑みで教えてくれたよ。


 俺は念願の出版社に就職できて、最初に配属になったのが『月刊BUNGEI』だ。

 毎日がとても新鮮で、編集者の仕事はまさしく天職だと充実していた。

 いや、もちろん今でもとてもやりがいがあるって感じている。


 新人賞を担当するようになって、これも楽しかった。

 全国から、われこそはっていう作家志望の原稿が山ほど届くから。

 なかにはもう一度勉強しておいでってのもあるけど、素晴らしい小説に化けるかもしれないと思う作品もある。


 俺はその原石を発掘するのに、胸を躍らせていた。

 もしかしたら俺がチョイスした小説が、その作者が、将来大物になる可能性だってあるのだから。


 第八回の募集をしたときだ。

 下読みさんから上がってきた原稿をわれわれは拝読するんだけど、思わず目を見張る作品があった。

 えっ、これは本当に素人さんが書いたのかと。


 冒頭から、いきなり物語に引きづりこまれた。

 恋愛小説なんだけど、今まで読んだことのないまったく新しい、概念を根底から覆す力強い物語なんだ。


 読み終わったときに気づいたら、もう顔面が涙でぐしゃぐしゃだった。

 でも決して悲しい涙ではない。

 感動に打ち震える、心の叫びだとわかった。

 間違いなく傑作だと確信した。


 読了するまでは、作者の経歴は見ないことにしている。

 固定概念を持たないために。

 それでいったいどんな人物がこの小説を書いたのかと、あらためて確認した。


 その時の俺の驚愕は、今でも部内で語りぐさになっている。

 だって大の男である俺が、悲鳴とも嬌声ともつかぬ叫び声をあげたのだから。


 作者はペンネームを使っているけど、本名は、なんと俺がずっと大好きだったあの子だったのだから。

 住所を見ると、やはりだ。

 ナゴヤ市天白区てんぱくくとある。 

 まさか小説を書いているだなんて、これっぽちも知らなかったから。


 志条坂も後から聞いたら、高校時代に小説を書いて、ウエブサイトで公開していたらしい。

 結局嫌気がさして、小説は一切書かなくなったみたいだ。

 それでも文章を書く魔力からは逃れられずにエッセイの分野に手を出して、見事に大成功したのは承知の通り。


 俺はその子の小説を入賞に推薦した。

 まさか好きだった女の子だからってわけじゃない。

 これでも編集者の端くれだ。

 公私混同なんてしない。

 でも結果として先輩編集者、そして強者つわものの編集長まで感涙にむせび泣き、全員一致でその小説を大賞に選んだ。


 それから俺は、その子の担当編集者を申し出た。

 これには、ふたつの理由がある。


 ひとつはこの原石を一緒に磨いて、世界で唯一無二の宝石にしたいから。

 小説家として、その名を世間に轟かせたいという野望を持っていたから。

 そして、もうひとつは。

                                  つづく


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