第一章

一話 「桜花」

 団地の周囲にはソメイヨシノが道路に沿って植えられており、今まさに開花真っ盛りであった。

 太陽が心地よい光を東の空から降り注いでくれる。


「おかあさん、行ってきます」


 紺色のセーラー服姿で玄関から声を掛けたのは、この春から高校二年生になった奈々咲ななさきめぐりである。

 通学用のローファーを履きながら、ベランダで洗濯物を干している母親を振り返った。

 めぐりの母、かおるが顔をのぞかせる。


「今日から二年生なんだから、教室を間違えちゃだめよ、めぐ」


「うん、大丈夫だと思う、多分」


 いや、普通ここはもう小学生じゃないんだからね、おかあさん! って言い返すところでしょ。

 薫は小さくため息を吐く。

 めぐりの後ろ姿に手を振り、「車に気をつけてね」と声をかけた。


「さあってと。私も急いで用意しなくちゃね」


 薫はベランダから室内に入ると、ダイニングキッチンを通り、玄関横のふすまを開く。

 六畳の畳部屋である。


 この市営団地はほとんどが三LDKの作りとなっている。

 ベランダのある南側に小さなリビングがあり、その横にフローリングの六畳間が襖で仕切られている。

 そこを一人娘であるめぐりの自室としていた。


 薫の畳部屋には化粧台に箪笥タンス、そして窓際には小さな仏壇が置いてある。

 薫は化粧台の片側に置いた写真立てに、ちらりと視線を送る。


「あなた、めぐのことをしっかり見守っていてくださいね。

 反抗期らしい反抗期がないのは、親としては肩すかしってところなんですけど。

 多少ヤンチャでもいいのになあ」


 薫は化粧台の鏡に視線をもどしながら、小さく肩をすくめた。


 ~~♡♡~~


 愛知県ナゴヤ市の南部に位置する天白区てんぱくく

 この区には運転免許試験場がある。

 広い試験場を取り囲むように団地や一戸建ての住宅が建ち並んでいた。


 めぐりは生まれた時からこの団地に住んでいる。

 小中学校は徒歩十五分ほどの距離にあったが、進学した愛知県立桔梗が丘ききょうがおか高校は徒歩圏内にはない。

 ナゴヤ市に隣接する町にある。

 自転車だと三十分はかかる距離だ。


 同じ地区から桔梗が丘高校へ通う生徒の大半は市営バスを利用する。

 自転車で通学する場合には、国道を避けて運転免許試験場のある小高い丘を越えて行かなければならない。

 裏道を利用するためにだ。

 運転免許試験場に免許の更新等でこの町へ訪れるときに自家用車で来る人が多いため、平日の国道は車の量が半端ないのだ。

 危険防止の意味も含めて裏道を使うのである。


 めぐりは薫から「毎日自転車通学は大変でしょ。バスを使ったらどう」といつも言われる。

 そんなときは決まって「わたしは運動が苦手だし体力もないもの。だからせめて学校へは自転車で行こうかなって」と返す。


 でも本当の理由はそれではない。

 学生割引があるとはいえ、交通機関を利用すれば当然ながら交通費がかかる。

 母子家庭のため少しでも家計の支出を減らそうと、考えているのだ。


 薫は団地内にあるスーパーで正社員のレジ担当をしながら生活費を稼いでいるのだが、借金はないにせよ楽ではない。


 父はめぐりが小学二年生の頃、癌で他界していた。

 幾ばくかの生命保険金は手にした薫であったが、そのお金はめぐりが大学進学や成人式、そしていつか結婚式をあげるときに恥ずかしい思いをしなくて済むようにと全額貯蓄していた。


 自転車のペダルを漕ぎながら、めぐりは春の風を受けて団地街を走って行く。

 ショートヘアを暖かな空気が巻き上げる。

 一緒に仲良く自転車通学する友人はいない。

 いつもひとりっきりだ。

 でもこの行き帰りの時間が嫌いではない。

 色々と自分のペースで考え事ができるから。


 めぐりは書物を読むことが、このうえなく楽しい。

 幼い頃、父はめぐりを膝の上に乗せて、たくさんの本を読んでくれた。

 いつも笑顔で「めぐ、今日はどの本にしようか」と訊いてくれた。


 今はひとりで行く町の図書館へ、休日になると親子三人で出かけて本を選んだものだ。

 たくさんの書物がかもし出す、独特の匂い。

 図書館にある本を大きくなったら全部読むと宣言するめぐりに、父は嬉しそうにうなずいてくれた。


 めぐりが寝る前には、必ず一緒に横になり本を読んでくれたし、即興の作り話を面白おかしく話してくれたりもした。

 本当に一人娘をかわいがってくれていたんだな、と感ずる。

 もう二度とあの温かな膝の上に座ることはできないけれど、あの頃のことは大切に覚えておこうと思う。


 今でも図書館の書架で本を物色していると、「めぐ、今日はどんな物語を借りようか」と父が微笑みながら話しかけてきてくれる気がする。


 中学生になったとき、めぐりは毎日のように足を運んでいた図書館通いをいったんやめた。

 高校はどうしても公立高校へ進学しなければ、母に余計な金銭の負担をかけてしまうからである。

 外で友だちと遊ぶよりも勉強机に向かっているほうが好きだったから、学校の勉強は苦ではなかった。


 中学生時代に仲の良かった数少ない友だちは、高校進学とともにバラバラになっており、桔梗が丘高校へ進んだ同級生の中には、気軽に会話のできる相手はひとりもいなかった。

 十名近い同窓生が一緒に入学していたが、元来おとなしい性格のために、その中の誰ともまともに口すらきいたことがなかったのである。


 ただひとりだけ。

 めぐりが桔梗が丘高校に進路を決めて良かったなと思う生徒がいた。


「今日も朝練あされんがあるのかなあ」


 頬を緩めてしまっている自分には気づかず、通学路最後の上り坂を立ち漕ぎで自転車を走らせた。

                                  つづく

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