四話 「梅雨」

 例年より少し遅れて梅雨入りをした。

 シトシトと雨粒が、レインウエアに降り注がれる。

 めぐりは通学バッグとお弁当の入ったポーチをビニール袋に包み、自転車の前かごに入れ、黄色いレインウエアを頭からすっぽりとかむって学校へ向かっていた。


 裏道を走りながら公園の横を通ると、紫陽花あじさいが青から紫、ピンク色に綺麗なグラデーションで咲いている。

 花はすっかり散ってしまったけど、ソメイヨシノが緑の葉っぱを広げて天の恵みを受け取っている。


 日本が四季を巡るなかで、この梅雨はとても大事なアクセントになる。

 だから雨は嫌いではない。


 いつもより少しだけ早く自宅を出た。

 中間考査で文系五位であったことは、かおるには告げてはいなかった。

 喜んでくれるのは間違いない。

 だけどそこから大学進学の話になってしまったら、どう自分の考えを伝えようかと迷っているからだ。


 薫は無理をしてでも大学へ進学させてくれるだろう。

 その無理をかけたくない気持ちを、まだうまく言葉にできない。

 時間はある。

 薫が納得してくれる理由を考えるのだ。


「いっそのこと勉強ができなければ」


 そうつぶやいたとたん、頭を振る。

 そんなことは絶対にしたくない。

 いくら公立とはいえ、高校だってお金はかかる。

 義務教育ではないのだ。

 家計をやりくりしながら学費を払ってもらっているのだから、せめて高校の勉強だけは精一杯頑張りたい。


 それに、教室の隣りには孝蔵こうぞうが座っている。

 格好をつけたいわけではないけれど、目立ちたいわけではないけれど。

 せめて孝蔵だけには真面目な子であると、ほんの少しでも思ってもらいたい。


 校舎が視界に入ってきた。

 めぐりの鼓動が早くなる。

 今日も孝蔵は朝練をしているだろうか。

 雨に濡れるのもかまわず、めぐりはかむっていたフードをめくり、頭を出した。

 孝蔵の放った矢が的にたる音が聴こえるかもしれないから。

 火照ほてる頬に雨が気持ちいい。


「せいっ」


 気合の入った声を耳がとらえた。

 めぐりはドキドキしながら自転車を降りた。

 アスファルトの道は自転車置き場へ続く。

 同時に弓道場へも続く。

 足音を忍ばせるように、ハンドルを押していった。


 雨のしずくが前髪からまつ毛に落ちる。

 めぐりは手のひらでぬぐうと、そのままそっと弓道場に視線を走らせた。

 射場には五人の部員がトレーニングウエアのまま矢を打っている。


 あれっ?


 めぐりはもう一度顔をぬぐい、まつ毛に残った水滴を払った。

 射場しゃばに立っているのは、どうやら一年生のようだ。

 ならば孝蔵は後方で指導をしているのだろうか。

 ここからでは確認できない。


 めぐりは自転車を押したまま、いつもより先のほうへ進んだ。

 矢よけ用に植えられた常緑樹の葉に、雨がパラパラと当たっている。

 自転車のスタンドを立てて、もう一度射場の奥まで注視した。

 そこに孝蔵の姿はなかった。

 今日は朝練をおやすみしたようだ。

 めぐりは形の良い眉を下げ、はあっと息を吐いた。


 ハンカチで顔をぬぐいながら、めぐりが教室に向かう。

 登校してくる生徒は、まだまばらだ。

 時間が予鈴まで四十分以上あるから。

 二階の二組の教室へ入ろうとして、めぐりは立ち止まる。


 自分の席の隣り、つまり孝蔵の机にはすでに本人が座っており、しかも恋歌れんかが腰を降ろしているのは窓際のめぐりの椅子であった。

 ふたりが話し込んでいる姿が目に入ったのだ。


 トクン、と心臓が鳴った。


 クラスメートなのだから雑談していてもまったく不思議ではない。

 でも今まで孝蔵がクラスメート、しかも女子とこんなに早くから教室内で会話していることなどなかった。


 めぐりの心の中を、灰色の雲がじょじょにおおっていく。

 梅雨空のように。

 ポツン、ポツンと冷たい雨が降り始めた。


 孝蔵と自分は単なるクラスメートなのだ。

 たまたま小学校、中学校、そして高校が一緒になっただけの間柄。

 高校二年生ともなれば思春期を迎えて、異性を意識し始める。

 孝蔵が誰を好きになろうと、めぐりがとやかく言える立場ではないことくらい理解している。

 しかも相手は校内でもトップクラスの美貌に、知性まで備わっている才女なのだ。

 自分のような地味で大人しく、ただ真面目だけで何の取り得もないその他一般の女子とは比べようもない。


 わかっている。

 そんなことは誰よりも自分自身が一番わかっている。

 だから辛いのだ。

 好意を寄せる孝蔵が、よりによって恋歌と仲良くしている姿を目の当たりにしてしまったことが悲しく、悲しく思う自分が情けなかった。


「ちょっと、なにボーっと突っ立てるのよ」


 いきなり背後からきつい調子の声を掛けられ、めぐりは悲鳴を飲み込んだ。

 あわてて振り返ると、登校してきた麻友子まゆこが眉間にしわを寄せて腰に手を当てていた。


「朝っぱらから、寝惚けてるんじゃないの。

 私は深夜まで猛勉強しておりますからって、アピールしているつもりなのかもしれないけど。

 邪魔で教室に入れないんですけど」


「あっ、す、すみません」


 めぐりは頭を下げて一歩後退する。


「ったく、何をやってんだか」


 麻友子は教室へ入ろうとして気づいた。

 恋歌が孝蔵と何やら話し込んでいるのだ。


 ははぁん、そういうことね。


 麻友子は細くカットした片眉を上げ、肩越しにめぐりをうかがう。

 なぜ恋歌がクラス一不愛想な孝蔵と会話しているのかは、どうでもいい。

 めぐりが孝蔵にどうやら気があるらしいことは、先日美術室の窓越しに発見した。

 だからこの場面に戸惑っているのではないか。


 麻友子の一重の細い目に、意地の悪い光が灯る。

 ニヤリと口元を曲げた麻友子はめぐりを無視し、開け放たれたドアから入室した。


「おはようございます。

 あっ、志条坂しじょうざかさんに三船みふねくん、おはようございまーす」


 やけに明るい声で手を振りながら教室へ入って行く麻友子の後ろ姿を、前髪の隙間から追い、めぐりは小さな声で「おはようございます」と挨拶をしながら教室へ入った。

                                  つづく

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