3.ココアと拳銃と
ロビーに出ると、幼稚園見送り組の奥さん達が楽しそうにお喋りをしていた。
私が挨拶をすると、その中の鈴木さんという人が声を掛けてきた。
「おはよう。お兄さんとお出かけ?」
「はい。これから朝食食べに行くんです」
「まぁいいわねえ。でも如月さん、あなた今から朝食位ちゃんと自炊しないと。将来結婚した時困るわよ」
鈴木さんはいい人なのだが、二言目には「自炊しなさい」と言う。その上話が長いので、にこやかに頭を下げ、逃げるように外に出た。
「きれいな兄妹よね。ご両親どんな方なのかしら」
背後でそんな噂をしている。
両親というか母親はあんなのです、と心の中で思ってみる。
カフェの席に着くと、見慣れない店員がメニューを持って来た。新人らしい。メニューを開くといつものと様子が違う。
何が違うか一発で分かった。そして度肝を抜かれて駿君に向かって絶叫した。
「ちょちょちょちょっとなにこの値段! 待って待って、これ、ちょ、やだなにこれ!」
呑気な話だが、なんと私は今になって初めて値段つきのメニューを見たのだ。
今までの店員は、私には値段の表示されていないものを渡していた。多分値段を見たら私がこういう風になるのが分かっていたから、駿君が指示していたのだろう。
「うるせえなぁ。これがこの辺の相場なんだよ」
あのやろ、と新人らしき店員を軽く睨んで舌打ちする。
「だだだってコーヒー一杯が私の知っている定食の値段を超えているって」
「いいから。恥ずかしいから黙って食え。値段見て注文の量を減らしたりしたら、俺に対して失礼なのは分かるよな」
そう言われて渋々昨日並みの注文をする。ほぼ毎日何気なく注文していた「ショコラショー」が、私の知っている定食三食分の値段と知って、思わずカップを持つ手が震えてしまう。
前に矢木さんが「これはココアじゃなくてホットチョコレートなんだから、そんながぶがぶ飲むもんじゃないよ」と言っていたが、成程、じっくり飲むと素晴らしく味わい深い。でも私の舌には、うちで飲むココアの方がおいしく感じてしまう。
「そういえばさ、駿君がココア飲んでいるの見たことないんだけど」
唐突な私の言葉に、駿君は少し首を傾げた。
「覚えているかなあ、私が初めて駿君の家を訪ねた時、ココア出してくれたじゃない。私の大好きなミルクと砂糖がたっぷりはいったやつ。でも駿君ってブラックコーヒーかミネラルウォーターしか飲まないよね。なんで家にココアとかミルクとかあったの?」
私の言葉を聞いて、駿君はコーヒーをテーブルに置いて少し視線を泳がせた。
そしてためらいがちに口を開く。
「『はなちゃんのここあ』」
「え?」
「なんでか俺がしょっちゅう作らされてさ」
俯き、少し笑いながら話を続ける。
「幾つ位のことだろう、まだ花菜が小さい頃、初めてうちで飲んだココアに凄え感動したらしくて、来ると必ず飲んでいたんだよ。それも下品な程大量のミルクと砂糖を入れた、もはやこれはココアじゃねえだろっていう、べとべとにくどい味のやつが好きで」
そんな言いかたしなくてもいいじゃない、だっておいしいんだもん、と心の中で反論する。
「そのべとべとのココアの事を、花菜が『はなちゃんのここあ』って名前つけて、俺に作らせるんだよ。内心面倒くせえなあ、とか、こんなもん飲んでよく虫歯にならねえな、とか思いながら作っていた」
「い、今さらですがその節はお手数をおかけいたしました」
「本当だ」
こういう時、駿君は否定しない。
「でもな」
そこでふっと柔らかな笑みを浮かべる。
その笑顔に、私の心臓がぎゅっと悲鳴をあげる。
「花菜がそのべとべとのココアをうまそうに飲むんだ。うちに来る時、しょっちゅう泣いていたり顔に痣作っていたりしたんだけど、『はなちゃんのここあ』を出すと幸せそうに笑ってさ。だから俺にとって、薔薇が親の死の象徴だったように、ココアは幸福の象徴だった」
駿君はそこで話を終わらせた。私も続きを促さない。
分かったから。普段飲む習慣のないココアが常備されていた理由が。
あの家には調理器具がない。でも、何故かミルクパンだけはある。その理由も分かった。
ぼんやりと思い出す。キッチンで私にココアを作ってくれている駿君の姿。彼が大きくなってからは、お母さんが作ってくれたり自分で作ったりしていたが、作り方は覚えていたのだろう。そして大人になった今でも、時折作っていたのだろう。
失われた、過去の幸福を思い出すために。
「でも、花菜が来てからはココアは必要なくなった。だから飲まない」
頬杖をついて私を見つめる。
真っ直ぐに。
瞳の奥が微かに揺れる。
「今は花菜がいる。だから必要ない。俺には、花菜の存在が幸福そのものだから」
家に戻った。いつもなら駿君はとっくに仕事を始めている時間だ。なのに彼はリビングで立ったまま何かを考え込んでいる。
「どうしたの」
私はリビングのソファに寝そべりながらスマートフォンをいじっていたのだが、さすがにちょっと気になってきた。
駿君は私を見たり窓の外を見たり、かと思えば焦点が定まらない目でぼーっとしていたりする。私に言う資格はないが、仕事、大丈夫なのか。
「花菜、ちょっと」
しばらくそんな様子だったが、やがて駿君は私に仕事部屋へ入るよう促した。
私は普段、仕事部屋に入らない。たまにPCで昔の家の動画を見せてもらったり、ドラマや映画を見せてもらったりするために入ることはあるが、その程度だ。掃除もしたことがない。するなと言われているからだ。
大きいだけでそっけないデスクの上には、PCや得体の知れない機器類が置かれている。
部屋の隅には折り畳み式の簡易ベッド。私がいずれ自立した時に貰う、と約束していたものだ。
「今後、何かあった時の為に、ここは見せておこうと思って」
駿君はそう言って部屋にあるウォークインクローゼットの扉に手を掛けた。
促されたので、中を覗く。
そして脚が凍り付く。
クローゼットの左側には、洋服が整然と掛けられている。スーツやコート、普段着などだ。
身だしなみには気を遣うが、身なりそのものには興味がない駿君らしい、上質でシンプルな少数精鋭のワードローブのほぼすべてが、左側だけに収まっている。
右側には。
ハンガーに掛けられた数着の服。だがそれらはすべて、闇に溶け込む黒い服だ。
そのほかに。
肩掛け式のホルスター。
数本の杭。
銀のバックルがついたベルト。
透明なケースに収納された銀のアクセサリー。
袋に入った乾燥した草類は、吸血種が嫌うハーブ類だろう。
そして。
壁一面にびっしりと掛けられた、
壁を埋めつくす拳銃を見て、私は言葉を失った。
彼が拳銃を複数持っているのは知っていた。だが細かい種類なんて分からないし、改めて見る事なんてなかったから、持っているとしても大小プラス予備で、三~四挺位かなと思っていたのだ。
「全部を使っているわけじゃない。普通の拳銃と違って特殊なものだから、すぐに調子が悪くなるし、下手に自分で直せない。違法な上に危険なものだからゴミとして捨てるわけにもいかない。で、自然とこうなった」
目を見開いて固まる私のそばで、駿君は淡々とした口調で言った。
「だから、一度『狼』として銃を手にしたら最後、一生こいつを抱えていかなきゃならない」
駿君は壁に掛けられたものの中から一挺を手に取った。
銀色に鈍く光る、巨大な拳銃。これは、私が以前手にしたものだろうか。私には両手で構えるのも精いっぱいだったそれを、駿君は片手でくるりと回して構えてみせた。
「こいつがある以上、今後俺に何かがあった場合、警察に言い逃れはできないし、世間の風当たりも結構なもんだろう。俺はいいよ、どうせその時はいないんだし。でも」
拳銃を壁に戻し、私を見た。
「花菜」
私に真っ直ぐ向かい合う。
「この家にいるということは、こいつと一緒にいるということなんだ」
そう言って拳銃を指差す。私は頷いた。
そんなの。大丈夫。
「俺にもしもの事があったら、まずは矢木を頼れ。木村さんでもいい。彼らはそれなりの覚悟を持っている。でも渡貫の所へは行くな。あいつは狼じゃない」
「分かった」
今ここで、「もしもの事なんて言わないで」なんて口に出して言わない。心の中で叫ぶだけだ。
「そんな事はないかもしれないし、今夜の事かもしれない」
「うん」
私が頷くと、駿君は一瞬下を向き、そして私の瞳の奥を真っ直ぐに見据えた。
「俺は、そういう奴だ。もし、それでもいいと言ってくれるなら」
拳銃を背に、彼は私の両肩に手を置いた。
肩に置かれた手が、微かに震えていた。
「ずっと俺と一緒にいてくれ。兄妹としてじゃなく、俺の、愛する人として」
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