5.甘えていいんだ

 自分の叫び声で目が覚めた。

 両手が震えている。息が苦しい。そして突き上げるような重苦しい心。


 自分の親を手に掛ける夢を見てしまった。

 しかもよりにもよって吸血種に仕立て上げ、杭を心臓に打ちつけた。

 私は自分の心の中に棲む悪魔に怯え、それを振り払うように頭を抱えて叫んだ。


 隣の部屋からごとごとと音が聞こえ、しばらくすると寝室のドアがノックされた。


「大丈夫か」


 ドアの向こうから聞こえる声に、安心感と申し訳なさが同時に押し寄せる。

 勝手に見た夢のせいで、駿君に余計な心配をさせてしまった。


「うん。大丈夫。ごめんね、ちょっと怖い夢を見ただけだから」


 軽い調子で答えようとしたのに、声が震えてしまった。ドアの向こうがしばらく沈黙する。


「入るぞ」


 駿君が部屋に入って来た。時計を見ると結構遅い時間になっていたというのに、まだ仕事でもしていたのか、「昼間」と同じ格好だ。

 そうだ、私は、彼がこうして夜遅くまで働いて得た収入を、ただ食いつぶしているだけなのだ。


「どんな夢を見た」


 ベッドの縁に腰かけ、幼い妹をなだめるように話しかける。その声の優しさに乗せられて、私は夢の話をしてしまった。


「私、もしかしたら心のどこかで、母親なんかこの世からいなくなればいいと思っているのかもしれない。その気持ちがよりにもよってあんな形で出てしまったのかも」


 駿君は私の話を聞いて、少し何かを考える様子を見せた後、首を傾げた。


「なあ、もしかして花菜は、夢の中で母親の命を絶ったっつう、自分の心を怖がっているわけ? 母親の」


 私が頷くと、彼は微笑みながら私の頭をくしゃっとした。


「あのな、夢って別に自分の願望を反映させているとは限らねんだよ。それに今、熱あるだろ。そうすると大抵ろくでもねえ夢見るもんだよ。だからそこまで気にする事ねえよ」


 私の額を二回つつく。

 今の話、本当かどうかは分からないが、少なくとも彼の気持ちは伝わった。それにこれ以上彼に心配をかけてはいけない。私は軽く頷いて微笑んだ。


「花菜は昔から、すぐに自分を悪者にする」


 私の瞳を覗き込む。


「そしてなんでも自分が我慢することで解決しようとする。そういうのは花菜が無駄に苦しいだけだ。だからやめろ。少なくとも俺の前ではやめろ。俺は花菜が自分を押し潰して微笑んでくれるより、甘えてくれた方が気が楽だ」


 低い声で、ゆっくりと語り掛ける。


「だからな、花菜。もっと、甘えてもいいんだ」


 彼の言葉が砂のような私の心に沁みわたり、じわりと潤していく。


「いいな」


 彼は私の肩に手を置き、念を押した。

 頷く。まだ熱で体は痺れるし、頭も痛いけれど、ふわふわとした綿わたの上を歩くような柔らかな気持ちになる。


「じゃあ、お願いがあるの。聞いてくれるかな」


 「甘えてもいい」の言葉の魔法にかかり、私は、今、駿君にして欲しいことを口にした。


「あのね、私のこと、昔みたいに抱いて欲しいの」

「は!?」


 目を点にしている駿君を視界に残し、昔の記憶を辿る。


「昔さ、私が母親に怒られたりして家を飛び出して駿君の家に行った時とか、よくぎゅってして、背中ぽんぽんってしてくれたでしょ。あれ、凄く安心して、もう私は絶対大丈夫って思えるようになるの。あれやってくれるかな」


 言いながら、幼稚で恥ずかしいことを言っていると気がついたがもう遅い。駿君はふっと笑顔になると、私の上体をふんわりと抱き寄せた。


「大丈夫、大丈夫」


 広い胸から、微かに駿君の匂いがする。

 彼は私の背中をぽんぽんと軽く叩き、囁くように呪文を唱えた。

 あの頃と同じように。


「花菜は、いい子だよ」




 そういえば。

 再開したての時に感じた、あの荒んだ雰囲気。

 「狼」として動いている時以外、最近はすっかり影を潜めた。


 そのかわりいつも感じるのは、そう、この感じ。

 柔らかで、あたたかで、そして切ないほどに甘やかな、この感じ。




 軽く見ていた風邪は、熱が上がったり下がったりを一週間繰り返して、ようやく一段落した。


 その間、駿君が黒衣を着て外出することは一度もなかった。仕事がらみの外出もほとんどせず、ずっと私に付き添ってくれた。




「来たよー。いやー、相変わらずきれいで落ち着かないなここ。はいお土産」


 私が治ってすぐに、矢木さんと希ちゃんが、カフェのランチプレートを持ってやって来た。


「一週間で、これだけ溜まっちゃったんだよね。ちょっと見てよこれ」


 希ちゃんをお座りの姿勢でベビージムに降ろし、駿君にタブレットを見せる。駿君はそれに目を通して言った。


「出来る限り今日中に終わらせる」


 吸血種を消す話、だろうか。

 「狼」は組織ではない。だから決まったルールがあるわけではないが、「恨み、怒り」という共通の感情を持つ者同士、なんとなくまとまり、その中で役割が決まっていくらしい。


 人と接することの多い矢木さんが、吸血種を消す依頼を受けたり、たちの悪い吸血種の居場所の情報を仕入れたりする。そして比較的時間の融通が利く駿君が、実際に葬り去る。その他にも木村さんみたいな協力者もいる。

 彼らは皆、何らかの形で心に闇を作り、その闇を闇で埋めて生きている。


「如月さん、今回、少し気になる奴が引っかかった。どう? 違うかな」

「これだけじゃ分かんねえな。あとで話聞かせてくれ」


 面倒な依頼があったのか、たちの悪い奴が見つかったのかは分からない。彼らは私に、「狼」としての具体的な行動の話をしない。

 知らない方が私の身が安全だから、と。


「まーー」


 その時、お座りして新しいおもちゃで遊んでいた希ちゃんが、指をくわえてこちらを見た。

 矢木さんが小さなタッパーを取り出す。中身は希ちゃんが少し前から食べるようになった離乳食だ。


「希、相変わらず不味そうなもん食っているな」

「不味そうとか言うなよ。これ作るの凄く面倒くさいんだぞ。今日は裏ごし人参入りのおかゆとすりつぶしたシラス」


 言葉で聞いただけで美味しくなさそうだが、離乳食ってそういうものらしい。駿君はその謎のどろどろ物体を見て少し笑った。


「なんだよ、こういうもんなんだよ。希はちゃんと食べるぞ」

「思い出した」


 駿君は私の方を見た。


「花菜も昔、こういう気色悪いもん食っていて、それを見て俺、可哀想になって、自分のおやつのチョコレート食わした事あるんだよ。そうしたらこいつ大泣きしやがって、親にばれて凄え叱られた」

「あはは、そりゃ叱るよ。俺なら張り飛ばす」


 駿君、前は矢木さんにこういう話とかしなかったのに。冗談を言ったり、笑ったり、最近少し丸くなった。

 もっとも、それが駿君本来の姿なんだけれど。


「まー、まー」


 食事を目の前に出されながら放置されて、希ちゃんはばたばたと両足を動かした。


「まんま、食べたいのかな」

「いや、うち『まんま』とか、そういう言葉使わないようにしている。希、なんて言っているのかな」

「これ言葉じゃねえだろ」


 夢のない正論を叩きつけられ、私達は口を閉じた。

 希ちゃんは謎のどろどろ物体を美味しそうに食べ、にこにこと笑っている。そして私達の食事をする姿を見て、また「まー」と言った。


「希ちゃん、最近よくおしゃべりするねえ」

「まー、まー」


 矢木さんは希ちゃんのおしゃべりをしばらく黙って聞いていたが、食事を置いて希ちゃんの所へ行き、高い高いをするように抱き上げた。希ちゃんは喜んで声を上げて笑った。


「きゃきゃ、まー、まー」


 その声を聞いて、絞り出すように呟く。


「……『ママ』」


 矢木さんは希ちゃんを見つめて微笑んだ。


「そうか、希、ママに会いたいか」


 微笑みを浮かべたまま、瞳の奥が潤む。


「パパもな、ママに会いたいよ」




 その日、駿君と矢木さんは仕事部屋にこもったまま、長い時間出てこなかった。


 「夜」になり、私が寝室に入ってすぐに、かちゃかちゃと小さな音を立てて駿君が外に出て行った。

 なんとなく、厄介ごとが舞い込んできたのは「昼」の会話から分かった。今日の帰りは遅いかもしれない。




 眠りから覚め、「朝」になっても、駿君は戻ってこなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る