6.彼が帰らぬ理由
おかしい。いつもは多くの人が起き出すころには家に帰って来て、「昼」には何食わぬ顔をしてスーツ姿で外出したりしているのに。
時計を見る。既に八時だ。普段なら仕事を始めている時間だ。
一週間の空白を取り戻すために案件を一気に片付けているのか。
それとも。
吸血種は人間より身体能力が高いうえに、暗闇に強い目も持っている。
だから拳銃を持っていても返り討ちに遭うことがある。私は路地裏で何度か、変わり果てた狼らしき人を見た。
彼らの最期の姿は、強盗被害に遭った人達よりも無残だ。
心臓がどくどくと暗い音を立てる。
こんな時、携帯電話を持っていたら。今まではさほど不便に思ったことはないが、繋がっていたい人がいる今、電話の便利さをひしひしと感じる。
そうだ、矢木さん。彼の所には何か連絡が入っているだろうか。
彼なら何か情報を持っているかもしれない。今の時間、出勤しているか分からなかったが、取るものもとりあえずカフェへと向かった。
ここはいつ来ても賑わっている。窓にはイルミネーションが瞬き、中にいる幸せそうな人たちを輝きで包んでいる。
私が店の入り口に立つと、矢木さんが来てくれた。
「いらっしゃいませ。おひとり様ですか」
愛想よく決まり文句を言う。その姿からは何も読み取れない。私が口を開きかけた時、彼は小声で「大丈夫」と言った。
「え、何か連絡が」
「こちらのお席でよろしいですか」
入口で話だけ聞こうと思っていたのに、いつもの席に案内され、うっかり座ってしまう。
しょうがない、ココアでも頼むか。
「ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」
けれども矢木さんは、そう言ってにっこり笑って引っ込んでしまった。
ご注文って、もう決まっているのに。しかしどうしてここのメニューは値段が書いていないんだ。
いやそれより。
「ご注文はお決まりですか」
しばらくして、呼んでいないのに矢木さんが来た。そしてまだ頼んでいないのにココア――正確には、この店のこれは「ショコラショー」という飲み物らしい――をテーブルに置き、にっこり笑った。
カップと一緒に、紙片がついている。
広げて見てみると、釘で引っ掻いたような独特の字が並んでいた。
さっき、お兄さんからでんわがありました。
これから じっか のちかくまで出かけるので、かえりがおそくなるそうです。
きょう、おいしゃさんが 9じすぎ にきますから、それまでにかえってください。
おひるごはんは、ここで一人でたべてください。たのむりょうりがきめられなかったら、矢木にまかせてください。
実家の近くって、あんな所で何をしているのだろう。
「実家」と言っても、駿君が昔住んでいた家は、彼がいなくなった後すぐに壊され、土地は分割して売りに出され、今では彼と全然関係ない家やアパートが建っている。
ランチのことまで言ってきているということは、帰りは午後になるつもりなのか。
何をしているのかの不安はあるが、とりあえず無事なことは分かったので、私は出されたココアを飲み、急いで店を出た。
支払いは「お兄さんがあとでするそうです」と言われてしまった。こんなことまで話がついているなんて、私がこの店に来ることを完全に読まれていたみたいだ。その事に駿君の余裕を感じ、私は少しだけ安心した。
マンションに戻ると、渡貫さんがロビーで待っていた。待たせたことを詫び、一緒に部屋へ入る。
「渡貫さん、今日、休診日じゃないですよね。この間から何度も来ていただいて、病院の方は大丈夫なんですか」
私は前から気になっていたことを訊いてみた。
「平気だよ、父がいるから。『私はいつ引退できるんだ』って凄く言われるけれど。駿もその辺が分かっていて俺を呼びつけているんだよ。だから行野さんが気にすることはない」
そう言って笑ってはいたが、本当に申し訳ない。渡貫さんはここへ毎回地下鉄で来てくれるのだ。
「あのね行野さん、これからも、ちょっと風邪ひいたとかお腹痛いっていう時も、必ず俺を呼んでね」
私の心の内を見透かされたのだろうか。渡貫さんは微笑んだ後、少し言いにくそうに続けた。
「他の所だと、その、売血に対する偏見を持っている奴とかいて、診てもらえないこともあるんだよ、嫌な話だけど」
そう言って眉間に皺を寄せる。
分かっている。まあ、世の中、そんなものだろう。
ひととおり診察が終わり、「もう大丈夫」のお墨付きをもらった。
「ありがとうございます。でも、ごめんなさい。もう大丈夫なのに来てもらっちゃって」
「いいのいいの。治ってよかった。それより今日、駿がいないとは思わなかったな」
渡貫さんは少し声を落とした。
何かを考えるような仕草をする。
「本当はこの時間には家に戻っているつもりだったのかも」
「いや、それはないな。あいつ、『今朝』いきなりここへ来るよう頼んできやがったんだから」
「今朝」ということは、自分が絶対にいない時間にわざわざ呼んだということか。
「やられた。俺、こういうお膳立てをされるのは嫌いだ」
上着を着ながら、渡貫さんは小さく舌打ちをした。
「お膳立て?」
「そう」
少し上を見てから、こちらを見る。
何かを言おうとして口を閉じ、また、口を開く。
「行野さんにとっては、不愉快な話だよ、多分」
そこで言葉を切り、続ける。
「あいつ、俺と行野さんをくっつけようとしているんだ」
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