7.復讐の為だけに
まさか、そんなわけない。この人は何を言っているんだろう。
「んなばかなと思うよね。でもこの『部屋に俺と行野さんを二人にする』っていう状況は、駿が意図的に仕組んだんだと思う」
厳しい表情で渡貫さんはそんなことを言ったが、いくらなんでもそれはおかしい。
「さすがにそれはないんじゃないですか。ただ単に渡貫さんは友達だし私も顔なじみだから、自分がいなくてもいいや位にしか考えていないと思いますよ」
渡貫さんの考えは飛躍しすぎだ。一体何をどうしたらそんな発想が飛び出すんだろう。
「それに治療で毎週二人きりになっているじゃないですか。そもそも私達はただの」
「あそこは厳密には二人じゃないよ。医院にくっついている家の中には俺の両親と祖父母がいる」
困惑する私をよそに、厳しい表情を壊さず腕を組む。
「駿が奥さんや恋人を持たない主義なのは知っているよね。その事について俺がどうこう言う気はないよ。でも今回の事は問題が別だ。俺に気を利かせたつもりなんだろうけど、いくらなんでも行野さんに失礼過ぎる。それに俺は正面からあいつと勝負するつもりだし」
駿君が誰の気持ちにも応えないのは知っている。
それはいいのだが、「勝負」って?
「行野さんからすれば、ただの顔なじみの医者と患者を二人にしたところでなんなんだって感じだろうけど、違うんだよ、俺からすれば。全然違う。勿論駿もそのことを知っている。だからこそ、今日は小細工に乗らない。あいつのお膳立てで振り向いて貰っても嬉しくない。ま、そういうこと。じゃ、お大事に」
そう言って渡貫さんは帰って行った。
渡貫さんの最後の方の言葉。それが何を意味しているのか。
何となく分かったような気もしたが、心の中で否定する。
まさか、ね。
駿君はその日の午後に帰って来た。
訊きたいことがたくさんあったが、とても会話が出来る状態ではなかった。
駿君は泥酔していた。
こんな姿を見るのは初めてだ。普段は酒類を一滴も口にしないのに。
青白い顔、ぐちゃぐちゃの髪、着崩れた服。アクセサリー類はつけたままだ。靴を脱ぎ捨て、おぼつかない足取りでリビングに向かう。
私が彼の体を支えながら上着を脱がせようとした時、その手を押さえられた。
充血し、濁った目で睨み付けられる。
上着の中から、銀色の巨大な拳銃が覗いていた。
駿君が何かを言った。だが呂律が回っていないので、何を言っているのか聞き取れない。私はとりあえず彼をソファに座らせようと促した。
そこで彼が足をもつれさせ、私を押し倒すようにソファの上に倒れ込んだ。
「……しょう」
私の上に駿君がのしかかっている。どけようとしても私の上にしっかり覆いかぶさってしまって動かない。
「ちょ、ちょっと駿君、どうしたの、やっ」
なんとか押しのけようともがく。彼の体温と重みを全身で感じ、ここから抜け出したい心と無関係に、鼓動が早くなる。
彼がまた呟いた。
「ちくしょう」
目が合った。濁った目の向こうに何を見ているのか、私から視線を外さず睨む。
魂の奥からの憎悪に歪んだ顔。強く握った拳が震えている。声が大きくなった。
「畜生、折角、見つけたのに」
語尾が震える。悔しさと、悲しさを、言葉に込める。
「あいつら、今度こそ、一人残らずぶち殺してやる……」
そうか。それで。
なんとなく、察した。
跡形もない「実家」の近くに行った理由。なかなか帰って来なかった理由。
そして飲み慣れない酒に溺れて悔しがる理由。
駿君が「狼」を続けているのは、正義のためじゃない。
復讐のためだ。
そして彼がここまで葬れなかったことを悔しがる相手は決まっている。
彼の下から抜け出そうと動かしていた手を止める。
私は彼に掛ける言葉を持っていない。だから彼の背中に手を回し、そっと包み込んで、その苦しみを共有することしか出来なかった。
私を下敷きにしたまま眠ってしまった駿君は、目を覚ますや超高速連続技で頭を下げて謝って来た。
「本当ごめん! 何がごめんか何一つ覚えていないけど多分絶対色々ごめん!」
ここまで一生懸命かついい加減なお詫びをされたことはないが、その面白さに免じて許してあげることにした。
「もういいよ。でも駿君、多分お酒は体質に合わないんだよ。あんまり飲まない方がいいと思う。それよりさ、そろそろ食事の時間だけど、その調子じゃ食べられないよね」
駿君は、私がこの家に来た当初にやって叱られた、「二リットル入りミネラルウォーターをペットボトルから直飲み」をやっている。彼は振り向くと弱々しく頷き、呟いた。
「うぅ、一人で食って来て」
自分しか食べないのなら適当なものを買って家で食べても良かったのだが、多分今、駿君は食べ物の匂いを嗅げないと思うので、仕方なくカフェで食事する。
本当は自炊を試してみたいのだが、家にはミルクパン以外の調理器具が一切ないし、そもそも私は料理ができない。
でも、これから一人で生活するにあたり、以前のような乱れた食事はしたくない。お料理、覚えないと。
自分の本音に蓋をする。
考えるな。本当は駿君にご飯を作ってあげたいのだなんて。
そうしてこのままずっと一緒に暮らしたいのだなんて。
駿君は誰の気持ちにも応えない。渡貫さんの話を思い出す。
今日の往診の件を駿君に問いただしても、「そんなこと考えてもみなかった」みたいな答えが返ってくるのは目に見えている。多分真相は永遠に分からない。
渡貫さん。
これからも週に一回、必ず会う。その時、私はどんな顔をして彼に会えばいいのだろう。
答えの出ないことを延々と考えていたら結構な時間が経ってしまった。私は駿君の食事代わりにと野菜ジュースを買って帰った。
仕事部屋のドアをノックしようとした時、中から人の話し声が聞こえた。
電話の声ではない。何かの会話のような、テレビの音のような。でも、この家にはテレビがない。
まさか、「あやしい動画」?
とりあえずノックする。いつも通り返事がないのでドアを開ける。駿君は椅子に座ってモニターの画面を見ていた。
今日は一台しか映っていない。駿君は私が部屋の中に入ったのに気がつくと振り返り、少し笑った。
「何見ているの。あやしい動画?」
「
淡々とした調子で言われたので画面を見る。
いつもは数字やグラフが映されているモニターには、心が締めつけられるような、懐かしい、あたたかな映像が映されていた。
これは、駿君の昔の家だ。
広いリビング、豪華な家具、そしてたくさん飾られた薔薇の花。
――おれが撮るう。おかあさん、それ、かーしーて。
画面の下からいきなり幼い頃の駿君の顔が出て来た。しばらく画面ががたがた揺れ、すっと画面が下がる。駿君がお母さんの手からカメラを奪ったらしい。
――はーい、これがおれんちでーす。
レポーターかなにかになりきっているのか、その後も「これはお花でーす」みたいなのがしばらく続く。
――おかあさんでーす。
――こんにちはー。
――おこるとこわいでーす。
――余計なこと言わなくていいの!
笑い顔で叱るお母さん。気さくで明るいのに上品な、私の大好きなお母さん。
――おとうさんいるー?
――今お仕事だから入っちゃだめ! あ、こら!
――おとうさんでーす。今日はおうちでおしごとしていまーす。
画面はお父さんの書斎を映している。壁一面を埋め尽くす本と、藍色の瞳をした、大柄で彫りの深い顔立ちのお父さん。
随分年をとったおじさんのイメージだったが、こうして見ると三十代半ば位だ。
――あー、あー。
どこかから言葉にならない声が聞こえ、カメラは床を映す。そこにはフリルがたくさんついた服を着た、希ちゃん位の赤ちゃんがいた。
――はなちゃんでーす。おれのいもうとでーす。
画面に映った私は、駿君にがしがしと力任せに頭を撫でられていた。
――はなちゃーん。かわいー。ちうー。
ちうー、と言いながら幼い駿君は、私の頬にキスをする。
その後、カメラをお母さんに取られ、しばらく家や駿君の様子が映されていた。
幼い日の、幸せがぎゅうぎゅうに詰まった動画を見る駿君の横顔。
穏やかな微笑み。過去だけを見ている横顔。その後に起きる悲劇も、泥沼の底の生活も、そして復讐の為だけに生きる今も、全て背を向け、過去だけに
昨日から今日にかけて、何があったのか。
私には到底聞くことが出来なかった。
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