8.君がいなければ
駿君が「実家」近くに行き、悔しい思いをして帰って来てから何日かが過ぎた。
その間、私の目に見える形で大きな出来事は起こっていない。
駿君は、「夜」になると黒衣で外出するものの、「朝」の時間の前には帰って来る。
あれ以来お酒に手をつけていない。そして相変わらず一切遊ばない。彼以上にストイックで面白くない生活をしている人がいたら教えてほしいくらいだ。
どう接したらいいのか分からなかった渡貫さんともうまく付き合っていけている。
基本的に今までと同じように接してくれていて、合間合間に「俺とつきあわない?」とか「いっそ嫁においでよ」とか言ってくる。だが冗談めかして言ってくるので、笑ったり流したり断ったり、切り返しがしやすい。
勿論それが、彼なりの優しさなのは知っている。私の気持ちが完全に駿君の方へ向いているのが分かっているのだ。
「最近、渡貫さんに『つきあわないか』って言われているんだけど」
ある日、食事をしながら駿君にそう言った事がある。
「知っている」
「知っていたんだ!」
「あいつから『宣戦布告だ』だの『お前にだけは渡さない』だの『祝儀はたくさん包め』だの言われているし」
そんな話をしているなんて、聞いたことなかった。二人とも表情や態度に出したことないし。
「渡貫に雇ってもらうか」
私の気も知らず、いきなりそんなことを言い出した。
「えっ」
「つきあうどうこうはともかく、あいつなら花菜の事を分かっているし、職場で無駄に嫌な思いをしなくて済むだろ」
でもその前にもっと字を覚えなきゃな、とか、これ以上人雇うゆとりあるかなあいつに、とかぶつぶつ言っていたが、私は複雑な気持ちだった。
駿君としては、渡貫さんの所は、私が仕事をする場所として理想かもしれない。渡貫さんなら、私の過去や体調の事も分かっているし、自分の友達だから安心だ。
でも、私の気持ちはどうするんだ。
まさか。
仕事をきっかけに、私と渡貫さんがつきあえばいい、とか、考えていないでしょうね……。
そして、あの日。
あの日、私は渡貫さんの所へ行った帰りに、近所のスーパーに立ち寄った。
「スーパー」と言っても、私の前の家の近所にある「スーパー」とは別物だ。
売り場には陽の当たる場所で生産された、香りの強い、みずみずしい食材が溢れている。よく見ると葉っぱが虫に食われていたりする。
売り場で息をするだけで、お日様の力を取り込めそうな気がする。
もうすぐ私と駿君の誕生日だ。
私達は誕生日が二日しか違わないので、小さい頃は二人の誕生日の間の日にお祝いをしてもらっていた。
今度の誕生日、二人でお祝いしたいな。
思い切ってケーキ、作ってみようか。今度お菓子作りが得意だと言っていた矢木さんに相談しよう。
プレゼント、どうしよう。今日、渡貫さんのところへ行く前、何が欲しいか聞いたが、あれじゃ答えになっていない。
駿君の答え。あの言葉を思い出し、胸が甘く締めつけられる。
……ああそうだ、ココアとミルクが切れたから買っていこう。
そういえば駿君、家ではミネラルウォーターとコーヒーしか飲んでいる所を見たことがない。私が初めてあの家に行ったとき、なんでココアが出てきたのだろう。
「おそれ入ります。如月さんでいらっしゃいますよね」
ココアが「本日限り」価格になっていたので、二箱買おうと手を伸ばした時、後ろから声をかけられた。
見かけない顔だ。私のことを「如月」と呼ぶのだから、マンションの住民なのだろうが。
あまり近所づきあいのようなものはしていないが、ロビーとかでよく会う人とは少し話したりしている。そこで私と駿君のことを話す際、面倒なので、木村さん以外の人には「兄妹」ということで通している。
だから私はあのマンションの中では「如月花菜」ということになっている。「如月さん」と呼ばれる度に、無駄にどきどきしてしまう自分が悲しい。
「はじめまして。私最近あのマンションに越してきました木山と申しますの。如月さんのことは何度かお見かけいたしておりますのよ。よくお兄様とご一緒にお出かけになられていらっしゃいますよね」
やたら丁寧な人だが、私は反射的に彼女のことを警戒した。
この人の「上品」は、多分偽物だ。
言葉遣いも変だ。「お出かけになられていらっしゃる」とか、丁寧言葉の使い方が、駿君のお母さんと違っている気がする。
「素敵なお兄様でいらっしゃいますわよね。本当、お二人とも絵に描いたような美男美女で」
駿君を素敵と言ってくれるのは嬉しいが、なんなんだ。いくら同じマンションとはいえ、初対面の人間相手によく喋る人だ。
私はこういうタイプの人が苦手だ。早くココア買って帰りたい。
「お兄様は今日はご一緒じゃないんですの」
「はい。今、家にいます」
ふと気がつくと棚にココアがない。目の前のおばさんが、最後の二箱を買い物かごに入れて持って行ってしまった。
ああぁ、「本日限り」価格だったのにいぃ。
「これからお買い物かしら」
「いえ、買おうとしていたものがなくなってしまったので、もう帰ります」
お前がべらべら喋るから、ココアがなくなっちまったじゃねえか! と、心の中で駿君の物真似をしながら怒ってみる。木山さんは、私の言葉を聞いて微笑んだ。
「じゃあ、マンションまで一緒に帰りましょうよ。車停めていますから、乗って下さるかしら」
別にすぐ近所だから歩いて帰っても全然構わないのだが、私の近所づきあいは如月家の近所づきあい、つまりは駿君の近所づきあいだ。
「ありがとうございます」
この人の上品さはやはり嘘だ。車はスーパーの目の前に堂々と路上駐車をしていた。
車のドアを開けられたので乗り込む。私が中に入ると、ドアを強く閉められた。
「如月さん。ご両親から注意されたことないのかしら」
木山さんは運転席に乗り込んだ。ドアのロックがかかる。
彼女は微笑んだ。
「知らない人の車に乗ったらだめよ、危ないからね、って」
――ねえ、誕生日、何か欲しいものある?
――ない。
――えー。じゃあさ、何か食べたいものとか、飲みたいものとか、なんかないのもー。せっかく久しぶりに誕生日のお祝いしようって言っているのにぃ。
――じゃあ花菜は何か欲しいものあんのかよ。
――ない。
――なんだそりゃ。
――ないよそんなの。だって駿君にはいつも凄くよくしてもらって、私、本当にどうしたらいいのか分かんないくらいだもん。私がプレゼントを何か買うにしても、結局お財布を辿ると駿君なのが情けないけれど、でも、お礼がしたいんだもん。
――花菜、あのな。
――う、うん。
――俺は花菜が存在して、ここに居てくれるだけで充分嬉しい。
――え……。
――花菜が元気でいてくれるだけで嬉しいし、その辺をうろうろしているだけで毎日楽しい。前にお前、俺に少しは遊んだらどうだって言っただろ。でもな、俺は花菜がここにいるだけで充分楽しいんだ。勿論いずれ自立してもらうが、それでも花菜が存在していてくれればそれでいい。逆にいくら金で買えるモノがあっても、花菜がいなければ意味がない。
――だから俺は今、何も、いらない。
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