9.「花嫁」の部屋
暗い。それに結構狭そうだ。あの建物、中はこんな感じだったんだ。
木山と名乗っていた女に連れて行かれたビルのエレベーターを降りる。暗がりの中、手を引かれて歩く。
廊下に明かりはついていない。手探りしなければ歩けないような状態だ。
「暴れたり逃げようとしたりしないんだ、あんた」
女は少し驚いたような声で言った。
「こうなってしまったら、もう、何をしても無駄ですから」
「兄ちゃんが助けてくれる、とか、そういう風には思わないんだ」
「ここはあのマンションから距離があります。それに私は携帯を持ってないですから、連絡しようがありません」
私の言葉に女は鼻を鳴らした。
「そうだね、確かに。あんたはもう、あの優しくて綺麗な兄ちゃんに会えない。あんたが物わかりのいい奴でよかったよ。手間が省ける。はいここだよ」
ここだよ、と言って通された小部屋には、ぽつんと小さな明かりがついていた。
中には貧相な若い男が一人。小さな椅子に背を丸めて座っている。
部屋の中にいた人物の顔にはなんとなく見覚えがある。前に母親と、何か話をしていた。
ここは私が前に住んでいた町だ。ごちゃごちゃとした庶民の町。
少し前、そんな町にいきなりこのビルが建った。そしてあっという間に柄の悪い吸血種が大勢棲みついた。
こいつはこのビルの住人だったんだ。
「お前、こいつメシにしていないだろうな」
「してないよ勿論。こいつ随分いい暮らししてやがったから、前より状態はいいはずだよ。結果的に一度逃げられてよかったのかもな」
女は部屋の中にいた男からお金らしきものを受け取った。
「じゃあ如月さん、ごきげんよう」
わざとらしい笑みを浮かべて、部屋を出て行った。
「さて」
私の方に向き直り、男は言った。
「お前の今置かれている状況を教えてやろうか」
「『花嫁』として売られたんでしょうか」
私の言葉に男は少し驚いたような表情をした。
「よく分かったな」
「私みたいに何も持っていない人間が吸血種に攫われる、となると、理由は限られています。それに、母親はお金に困っているし」
「へえ。あんた、あの女の娘なのに、もの考える頭あるんだ。父親が良かったのか」
私の父親の事なんか、母親も含め誰も知らない。だからそう言われても返事のしようがない。私は曖昧に俯いた。
「ところであんたが今一緒に住んでいる奴、マンションの住民は『お兄さん』って言っているみたいだが、あれ本当の兄ちゃんじゃないんだろ。お前の母ちゃんが言っていたぜ、昔近所に住んでいた幼馴染だって。んで、そいつの両親は吸血種に殺されたって」
全く、あの人は。
私を売りつけるだけじゃ飽き足らず、余計なことを喋って。
俯きながら内心憤慨する私を見て、男は背をさらに丸めた。上目遣いで私を睨む。
「で、兄ちゃんは『狼』かい?」
突然の言葉に、思わず音を立てて息を吸い込んでしまった。
ああ、そうだ、ここで変に動揺してはいけない。
「え?」
首を傾げてみる。同時にさっき女が喋っていたことも色々思い出して考える。
もしかしたら「もし母親の言うことが本当なら、可能性としてなくはない」位のつもりで言っているのかもしれない。駿君の正体の決定的な証拠をこいつが握っていない限り、ここは隠し通さなければ。
「狼、って、どうしてそう思われたんでしょう。確かに昔、吸血種に家族を襲われた幼馴染はいましたよ。でも行方不明なんです。あ、あの人、マンションではお兄ちゃんってことにしていますけど、彼氏です。普通に考えて、そうなりませんか」
咄嗟にそんな事を言ってみた。こいつらに駿君の正体がばれたら、いいことなんか一つもない。
「彼ね、仕事で成功していて、素敵なお友達もいて、めちゃめちゃ充実しているんです。なのにわざわざ狼やるとか、意味分かんないし」
息をするように嘘をつく自分に驚く。私のことはもう、どうしようもない。それより駿君のことは、何としても守らなければ。
母親が、以前駿君が杭で吸血種を
あとさっきの会話で不都合なことはなかっただろうか。
「ふうん……。あ、ちょっと待て。……ああ、もしもし。うん、いいよもう
私を部屋の隅に立たせたまま、男は着信のあったスマートフォンに向かって話していた。
「当たり前だろ、使えねえな」
男は電話を切ったあと呟き、私に向かって笑った。
「俺の部下がさ、あのマンションの中に入ろうとしたら無理でしたー、だってさ」
マンションに入ろうとした、って、まさか、「狼」の可能性がある駿君の事を狙おうとしていたのだろうか。
あのマンションの中に入り込もうとしても無理だ。何重にもロックがあるし、コンシェルジュや警備員もいる。
だから大丈夫だと思うが、うっかり変なことを言わないように気をつけよう。
「しかしそれにしてもお前、随分冷静だな。『花嫁』って何か、知ってんだろう」
頷く。
「一生、外に出られなくてもいいのか」
ここに連れて来られた以上、私の「一生」なんか大して残っていない。
こいつが私を「花嫁」として買うために、母親にいくら渡したのかは知らない。だが損な買い物であったことは間違いない。
一瞬、その事実を言えば逃がしてくれるかも、とも思ったが、やめた。そんなことをしたら、「不良品」を押し付けた母親が危ない。
「母ちゃんに売られたっていうのに、怒り狂ったりしないのか。あいつ、あんたを一度俺に売って、今回もう一度売り直したんだぜ。俺に言われたかないかも知れないけど、本当、『人でなし』だよな」
「前に一度、怒っていますから」
もう、どうでもいい。あの人はああいう人なのだ。
私のことをろくに育てず、大きくなってからは私を「餌」にしてその日暮らしをする。
でも、もう、あの人には本当に後がない。私を「花嫁」にしてしまえば、継続的な収入は得られなくなる。
私はもうおしまいだが、あの人ももう、おしまいだ。
「ここまで『人間』であることに未練がない奴も却って恐ろしいな。まあいい、これからお前の住むところはこの部屋だよ。うちには俺と嫁しかいないから、そんなに苦しむことはないと思うがね」
そこでまた誰かから着信があり、何かを話しはじめる。「まだ吸っていないからお前先にどうぞ」とか。私の話題だろうか。
そうか。
この部屋で、私は一生を終えるのか。
小さな明かりと椅子だけの、この部屋で。
誕生日は、迎えられるのだろうか。迎えたところでどうしようもないから、こうなった以上、もう迎えられなくてもいいや。
ああ。
楽しかったな。色々。
二十年弱の人生の中で、後半十年はつらかったけれど、最後の数カ月は夢みたいだった。
この世でただ一人好きな人と一緒に過ごせた。
気持ちに応えてもらえないのなんか当たり前だ。それに、兄妹としてだけど、とっても大切にしてもらって、そしていっぱい愛してもらった。
だからもう、いいや……。
――俺は花菜が存在して、ここに居てくれるだけで充分嬉しい。
その時、脳裏に駿君の言葉が甦る。
――花菜が存在していてくれればそれでいいし、逆にいくら金で買えるモノがあっても、花菜がいなければ意味がない。
私は愚かだ。
私は。
――だから俺は今、何も、いらない。
なんでこんな簡単なことに、気がつかなかったんだろう。
私がいなくなる。そうすればきっと、駿君は悲しむだろう。
私は彼にとって、「ただ一人の大切な家族」だから。
自分の一生がここで終わるのは、嫌といえば嫌だ。でも、それによって駿君が悲しむことの方が、ずっと、ずっと、ずっと嫌だ……。
「あれぇ、今頃になってようやく色々分かったかな。でも今さら泣いてももう遅いよ」
男は、泣き崩れる私を見て、少し笑ってから立ち上がった。私をよけて出口に向かう。
「もうすぐ嫁が腹すかせて帰って来るから。それまでここに座って待っていて」
ドアに手をかける。その時、ドアの外からきゃっという甲高い声とともに、どん、と低い音が聞こえた。
男がドアを開ける。
部屋の入り口には灰が舞っている。
その灰の向こうに、煙を上げる銀色の巨大な拳銃を持った、駿君がいた。
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