3.あの頃と違う唇

 分かってはいたけれど。にしても駿君はいつもいきなり、かつ強引だ。


「今日一日空いた。今から出かけるぞ」


 二人の誕生日の間の日。朝、寝室のドアの外からいきなり声が掛かった。

 どうやらぎりぎりまで終わるかどうか分からなかった仕事が急に解決したらしい。急に解決って、「明け方」まで外出していて、今まだ七時過ぎなのに、もう仕事していたのか。食事も睡眠も少ないのに、どうしてこんなに動けるんだろう。


 それはともかく、今日は出掛けずに家でお祝いをすることになると思っていたので、今、普段着にすっぴんだ。折角のお出掛けなんだから、ちゃんと気合を入れたい。入れたところでどうなるものでもないのだけれど。


「えっと、私、出かけたりして大丈夫なのかな」

「さっき渡貫に許可貰った」

「そこまで準備終わっているんだ……。じゃっじゃあ、十五分待ってくれるかな」

「七時二十八分までって事か」

「……うん」


 急いで着替え、未だに慣れないメイクを始める。

 本当はお出かけの日はもっと時間をかけてきれいにしたかったのに、急いでいるものだから眉毛が左右で違っちゃうし。それを直していると瞼に余計な眉毛が生えているのを発見しちゃうし。

 病み上がりで自分の顔なんかしばらくまともに見ていなかったから、色々なアラが見えてくる。


 問題は眉毛だけじゃない。

 目の下の隈とか、メイクでは隠しきれないやつれとか。


 結局、七時二十八分を大幅にオーバーして私は身支度を終えた。時間がかかったことで駿君に何か言われるかと少しびくびくしていたが、駿君は寝室から出て来た私を見て、ふっと顔をほころばせ、囁いた。


「きれいだよ、花菜」




「で、今日はどこへ行くの?」


 駐車場で訊くと、彼は腕を組んで首を傾げた。


「そういや考えていない」

「えええぇぇ。いきなり出かけようって言うから、私、てっきりなにかあてがあって言っているのかと思った」

「だよなあ」


 他人事のような返事をして首を逆に傾げる。

 

 ああ、もしかして。

 この人、大人になってから遊ぶという発想がなくなってしまったのか。


「あの、もし特にないんなら、実は行きたい所があるんだけれど。うーん、でも駿君、あんまり好きじゃないかも。ていうかキャラに合わないなあ」

「なんだそれ。まあいい。今日は一日、花菜につきあう」


 私の言葉に彼は一瞬眉をひそめたが、そう言って車のドアを開けた。




 イルミネーションが眩しい街の中を、私達を乗せた車は滑るように滑らかに走っていく。

 運転席に座る駿君の横顔が好きだ。流れ去る街の光が、彼の瞳の中に映る。それが童謡の中の星空みたいでとてもきれいで、いつまでも見とれてしまう。


「今日は時間を取ってくれてありがとう」


 私の言葉に、彼が微笑む。

 そう、この笑顔。子供の頃、この笑顔が私の支えだった。


「私ね、駿君って、笑顔のイメージだったの」


 唐突な私の言葉に、彼は不思議そうな顔をした。


「それなのに、十年ぶりに会った駿君は、なんていうか毎日凄くつらそうで、会えたのは嬉しかったけれど、悲しかったの。こんな思いをするくらいならいっそ『狼』なんかやめちゃえばいいのに、っていつも思っていたの。だって、『夜明け』に帰って来るたびに、苦しみが増しているような気がしたんだもん」


 結構深い部分に踏み込んだ話をしてしまったので、彼が不快になって今日という日が台無しになってしまったらどうしよう、という不安がよぎる。だが駿君は前を向いたまま私の話を黙って聞いてくれた。


「私はね、駿君の魂を救いたいな、って」


 魂なんて単語のせいか、驚いたようにこちらを見る。運転中なのに。


「なのにどうしたらいいのか分からなくて。私、吸血種を消すのは根本的な救いにならないような気がするの。却って苦しむだけだと思うの。だからといって何かいい案があるのかっていうとなにもないんだけどね。でも、最近」


 変わった。

 あの荒んだ雰囲気はすっかり影を潜め、あたたかな笑顔が増えた。

 少しずつ昔の駿君が戻って来た。


「花菜の言う俺の魂なら、もう充分救われているんだけど」


 信号が赤になった。彼の手が、私の頬を優しく撫でる。

 あたたかな手。この優しさと、あたたかさが、切ない。


「前もちょっと似たような事言った気がするけど、俺は花菜がいるだけで嬉しいし、毎日楽しい。花菜の存在が俺にとって最大の救いなんだ。だからごちゃごちゃ考える必要なんてねえっつうか、意味ねんだよ。まあ、敢えて言うなら、花菜が笑って上を向いてくれるようになれば、それ以上のことはない。でも、だからって無理されたらそれは嫌だ。兎に角な、俺はお前がいればそれでいい。そして」


 何かを言おうとして言葉を切った。

 私のことを見る。彼の瞳が、私の心の深い所に触れる。

 頬に置かれた手が離れ、彼の顔が近づく。


 彼の唇が、私の頬にそっと触れる。


「あ……ごめん。ガキの頃の勢いで」


 信号が青になった。我に返ったように顔を離した彼は、そう言うや慌てて車を発進させた。

 その後はお互い、先程の事がなかったかのように他愛ない話をしながら目的地に向かった。


 勿論、私の心の中では「なかった」事になんかならない。

 「ガキの頃の勢い」って、あの「はなちゃーん、かわいー、ちうー」と同じだというのだろうか。

 「ちうー」なら覚えている。彼が結構大きくなるまでよくされていたから。

 私はあれが好きだった。よくは分からなかったが、彼の愛情を一身に受けている気がして。

 たまに口についたおやつのチョコレートを一緒にくっつけられたりもしたが、それでもいつも嬉しかった。


 あれと、同じだったのだろうか。

 じゃあ、私のこの乱れ打つ心臓も、彼の唇の触れたところがいつまでも熱い頬も、そしてさっきからやけに饒舌な駿君の態度も、全て意味がないというのだろうか。




「一日つきあうって言った以上つきあうけどよ、本当に本当にここでいいのか?」


 入り口に立ち、駿君は腕を組んで首を傾げた。


「昔一度連れてきてもらって、凄く楽しかったんだもん」

「昔って、大昔だろ。今来て楽しいもんなのか」

「分かんないけどさ。私、駿君に遊べ遊べって言う割に、自分もあんまり遊んだ記憶ないんだもん」


 人生の後半十年間、娯楽がごっそり抜け落ちている私達は、十年以上前に駿君の両親と一緒に来た遊園地の前で、腕を組んで立っていた。


「ここ、駿君の方が詳しいでしょ。小さい頃よく連れてきてもらっていたみたいだし」

「詳しいっていってもなあ。さすがにもう特撮ヒーローのステージショー見て興奮する歳でもねえしなあ」


 そんなことを言って困ったような表情をする。


「もしもここに希ちゃんと一緒に矢木さんが来ていたら、駿君の姿見て色々衝撃を受けるかも」

「……帰ろう」

「えー、一日つきあうって言ってくれたじゃない」


 なんとも言えない表情を浮かべた駿君の手を引いて、私は幼い頃の幸せな思い出を辿るように遊園地のゲートをくぐった。

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