2.私達は変わった
気がつくと、入って来た時より室温がかなり上昇している。
私は、度重なる売血のせいで、体内の血液が極端に少なく冷えやすい。だからこの室温はありがたいが、部屋の主である駿君は、暑いのかシャツの袖を
甘くて熱いココアを飲みながら、改めて部屋を見回す。
どうやら一人暮らしみたいだ。がらん、とした室内は無駄に広い。そしてきちんと片づけられて清潔だ。ついさっき飛び出してきた私の家とは正反対。
そういえば、駿君が昔住んでいた家も、物凄く広いのにいつもきちんと片付いていた。私の母親は、「どうせあそこのうちはお手伝いさんとかが片付けているんだよ」なんて言っていたが。
私に言われたくないかもしれないけれど、駿君、変わった。
最後に会った時は彼がまだ中学二年生の時だから、変わっていて当然なのだけれど、そういう意味ではなく。
漆黒の髪に藍色の瞳、均整のとれた体型は昔と同じ。彼も私と一緒で、子供の頃からあまり顔の変わらないたちだったらしく、彫りの深い整った目鼻立ちは昔の面影をかなり色濃く残している。
だが、変わった。
一見して「普通の生活」をしていないのが分かる。
特別風変りな格好をしているわけでもないし、部屋の中に何があるわけでもない。でも、平凡な社会人なら、こんなに
私は知っている。これは、社会の泥沼の底を這ったことのある人の眼だ。
この十年の間に、何があったのだろう。どんな辛酸を舐めたら、あの駿君が、こんな雰囲気を身に
十年前のあの日を最後に、私の知っている駿君は、いなくなってしまったのだろうか。
彼の両親と、幸せがぎゅうぎゅうに詰まった大きな家と共に。
「今、いくつだっけ。十九?」
しばらく黙ってこちらを見ていた駿君が、いきなりそんなことを訊いて来た。
「うん」
「お母さん、どこか具合悪くなったとか」
「元気だよ。どこも悪くない」
「じゃあもっと早く家出ればよかったじゃねえか。一人なら、こんなことしなくてもなんとかなっただろ」
こんなこと、と言いながら、駿君は自分の滑らかな首筋を軽く叩いた。私は反射的に首筋を隠す。
成程ね。私は大人だし、親は健康なんだから、それぞれが普通に働けばいいのに。そう思ったのだろう。
やっぱり、ね。
この十年に何があろうと、彼は『お坊ちゃん』だ。
「あのね、それは私が『普通』の育ちで、母親が自分は母親だって思っている場合しか通用しないよ。覚えているでしょ、うちの母親がどんな『奴』か」
私の言葉に彼は何か思う所があったのか、それ以上常識を振りかざすようなことはしなかった。
私が何故ここに逃げて来たのか、その理由を駿君は聞かなかった。代わりに目の前の問題だけを話題にする。
「当分家は出るつもりなのか」
「うん。もう帰らない」
「どこか泊まる金あんのか。友達とかは」
「どっちもない……」
「じゃあ俺のマンションの一部屋貸してやる。今日はしょうがねえ、うち泊まっていけ」
「ありがとう……って、え、『俺のマンション』?」
「うん。マンションやビルなんかの建物いくつか持っているから、その中から探す」
建物を、持って?
言葉の意味がうまく飲み込めずに固まっている私を見て、駿君はにやりと笑った。
「親の遺産、殆ど騙されて巻き上げられたけどよ、多少は残っていたから、それを元手に
彼は私の目の前にかがみ込み、私の額を昔みたいに二回つんつんとつついた。
「自分から転がり込んでおいて、何さっきからびくびくしているんだよ。俺がやばい商売をしているとでも思ったとか? まあいい。トイレはあっち。寝るのは……」
「あ、あの!」
私がお礼を言おうとした時、駿君は振り返って私の額に手を当てた。
あたたかい手が私に触れる。彼の藍色の瞳が揺れた。
「まだ、寒い?」
低く柔らかい声が問う。私は頷いた。
気付いたんだ。私の体が、吸血種達のように冷たく冷え切っていることに。
彼は自分の寝室に私を連れてきて、ここで寝るよう促した。空調を調節したのか、天井からぶわっと暖かい空気が噴き出す。
毛布もベッドもふわふわで柔らかい。私は微笑みながら手を伸ばし、彼に触れた。
「急に来たのに、色々ありが」
駿君は私の伸ばした手を掴み、引き上げた。
露わになった私の手首は、吸血種の噛み痕だらけで紫色に変色している。
彼はその手首を睨むように見据え、もう片方の手でそっと触れた。
「はなちゃん」
あたたかな両手で、私の醜く穢れた手首を慈しむように包み込む。
「可哀想に」
「あの事件」のせいで、駿君は魂の底から吸血種を憎んでいる。その「餌」に成り下がった私は、てっきり蔑みの言葉を吐かれると思っていたので、「可哀想」などという意外な言葉に一瞬目が点になってしまった。
「許さねぇ」
下を向き、低い声でそう呟くと、彼は部屋を出て行った。
暖かで清潔な部屋に、ふわふわで柔らかな寝具。きっと駿君にとっては生まれた時から当たり前に存在していたそれらは、私の家にはどれひとつとしてなかった。
毛布を頭から被ってみる。
シトラスとハーブが混ざったような、爽やかで清潔感のある匂いがする。さっき駿君からも同じ匂いがした。
こうしていると、なんだか駿君にぎゅっとされているみたいで、私は思わず冷えきった頬を火照らせた。
目を閉じながら、私は「青空」のことを思い浮かべた。心地良い空間が、陽の光を連想させたのかもしれない。
勿論、本物の陽の光や青空なんか知らない。一部の場所を除いて、空には常に厚い雲がかかっているのだから。
まれに、雲の隙間からほんの僅かに空が顔を出すことはある。だがそれは一瞬の出来事だし、糸のように細い光が、ぼんやりと見える程度だ。
黒い雲のない場所は、人々の憧れだ。立ち入りが厳しく制限されているし、私のような身分の人間には縁のない、夢の世界だけれども。
そこでは、電気がないと暗闇に包まれるのは「夜」だけ。その感覚が、「常に夜」の状態しか知らない私にはよく分からない。
そこにないのは黒い雲だけではない。
「吸血種」の存在も、ない。
ああ、もう。
青空を思い浮かべていたのに、いつの間にか吸血種のことを考えてしまっている自分が嫌だ。
黒い雲のない場所は、吸血種立ち入り禁止だ。だが奴らは日光をあまり好まないらしく、自ら進んで暗闇の世界の片隅に棲みついているようだ。
外見や知能などは人間と一緒なので、人間に害虫扱いされながらも、人間と同じように暮らし、なんとなく共存している。
けれども、吸血種には人間と決定的に異なる点が三つある。
ひとつは、糧が生きた人間の血であること。
ひとつは、寿命が尽きたとき、灰となって消えること。
そしてもうひとつは、生物学的な「生き物」ではないこと。
彼らが血を得るために取る行動は決まっている。
財のある者は、売血を生業とする人間――多くは、「餌」と蔑まれながらもそれしか糧を得る
だが血を買うにはお金がいる。だから財を持たない者は、暴力をもって血を得る。
奴らは集団で人間を襲い、命の果てるまで血を吸い、金品を奪って逃げる。
ただやみくもに襲うわけではない。防衛や救助目的の吸血種殺しは合法なので、見つかれば人間に消されるリスクがある。
だから防犯意識の高い高級住宅街ではない、庶民の町に住む富裕層は格好のターゲットとなる。
ちょうど十年前の、駿君の家のような。
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