13.それぞれの生命
「いや、ちょっとなら大丈夫って話も……って、まあいいよその話は。それより如月さん、思ったより元気そうでよかった」
元気そうだからいいやと思ったのか、矢木さんは断りもなく希ちゃんをベッドの上に乗せた。希ちゃんは駿君の体の上でぐいぐいとはいはいをする。
「重い」
「だろ? どんどん大きくなっているからね。凄い勢いでミルクがなくなるんだよ。な。だからパパ頑張って働くよ。希は未来の希望の光なんだもんな」
今の駿君の「重い」は、「どけろ」という意味だったのだろうが、矢木さんは気付かない。私は希ちゃんを抱っこしようと立ち上がったが、その時急に思い出した。
「希望の光といえば、今日、救急車に乗る前に見たんです。一瞬ですけど、青空」
私はその時の光景を二人に話した。「気のせいだ」とあしらわれるかと思ったが、矢木さんは真顔で頷いた。
「雲に小さな穴があく、あれのはっきりしたやつだよね。うん、俺も見たことがある。希をおんぶして散歩していた時なんだけどさ、雲がぽつっと開いて、青空が覗いたんだ。俺、それを見て、『ああ、太陽がかわいい希を見たくて雲をどけたのかな』と思ったんだけど」
「親ばかっておもしれえな」
駿君が鼻で笑う。
「大昔はどこでも青空が見られたらしいのに、なんでこうなったんだろう。青空、見てみたいなあ。俺、生まれてから三十二年の間、一度も陽の当たる場所に行った事ないんだよね。まあ庶民がほいほい出入りできる場所じゃないし」
「え、矢木さんって駿君より年上なんですか?」
自分で青空の話を振っておきながら、あまりに気になったのでずれた質問をしてしまった。てっきり駿君と同い年か少し年下だと思っていたのだ。
「矢木は無駄に若作りだもんな。それよりこれ。初めてじゃないか?」
年下なのにひどいことを言い、駿君が自分の胸元を指差す。
そこで起きている光景に、私と矢木さんは年齢のことを忘れて目を見張った。
今まではいはいをしていた希ちゃんが、駿君の体を掴んでよろよろと立ち上がろうとしていた。
ちいさな手でしっかりと駿君の服を掴み、よちよちと足を動かす。やがてぶるぶると震えながら、自分の脚で立ち上がった。
「つかまり立ち、できた……」
矢木さんはそう呟くと、顔いっぱいに笑みを破裂させた。
「偉い希! 凄いぞ! よくやった!」
あっという間に尻餅をついた希ちゃんを抱き上げて叫ぶ。希ちゃんはパパの笑顔に笑顔で応える。
矢木さんの笑顔。今日、駐車場で見せた冷たく残忍な笑顔とは全く違う、愛情いっぱいのあたたかなパパの笑顔。
「そのうちあっという間に歩き出すぞ」
矢木さんの姿を見て、駿君まで顔をほころばせていた。
「いつか希が青空の下で歩けるようになればいいんだがな」
そして少し俯き、何かを考えるようにして、誰に言うでもなく呟いた。
帰りは矢木さんに部屋の入り口まで送ってもらった。
駿君も矢木さんも、しきりに渡貫さんを呼ぶよう言ったが、呼ばなかった。噛まれてからもう大分時間が経っているから、今診てもらっても明日診てもらってもどうせ同じだ。
それになんとなく、今、あのマンションに彼を呼びたくない。
一人になり、自分の首筋の傷にそっと触れる。もしかしたら今夜あたり、また熱を出すかもしれない。そのとき私は、一人だ。そう思うと不安だが、今はスマートフォンもある。いざとなったら誰かに連絡が出来る。それでも今日は早めにベッドに入った。
隣の部屋に駿君がいないと思うと、急に孤独感が押し寄せて来る。私は本当に弱くなった。
大丈夫なんだろうか。これからちゃんと自立できるんだろうか。
自立、か。ああ、そうだ。明日からまた仕事を探さなきゃ。
私は重い気持ちを抱えながら眠りについた。
結局、その夜は何事もなく過ぎ去り、爽やかに目が覚めた。
無駄に広い部屋を掃除しながら時計を見ると、まだ九時前だ。駿君は今日退院だけど、迎えはいらないと言われている。この時間ならまだ帰って来ないだろう。
そうだ、確かいつものカフェには朝食メニューがあるはずだ。駿君が朝食を食べないので私も渋々従っているが、本当は朝からしっかり食べたい。
どんな感じか見て来よう、と玄関に立った時、駿君が帰って来た。
「おかえり……あっ」
彼の姿を見た途端、私は自分が情けなくなった。
駿君の服には昨日の血がべったりとついていたのだ。
私ってば、「迎えはいらない」の言葉を鵜呑みにして、着替えを持って行ってあげなかった。つくづく自分の気の利かなさが嫌になる。
「やだごめん、本当ごめんね。その服、着替え持って行けば」
「花菜、熱は出たか!?」
血まみれの姿で、ただいまの言葉もなく、私を見るなりそう叫んで肩を揺すった。
「え? あ、ううん、大丈夫。今回は出ていないよ。ごめん心配かけて」
自分は昨日あんな目に遭ったのに、私を心配してくれている。彼の心にありがたさと申し訳なさを抱え、私は笑顔で答えた。
「本当に……?」
「本当だよう。じゃなきゃ今頃こんなふうにふらふら出歩こうとしないでしょ」
彼は私の言葉を聞くや、肩から手を離し、ずるずるとその場に座り込んで俯いた。
「駿君?」
どうしたのか。もしかして貧血で気分でも悪くなったのだろうか。かがみ込んで彼の顔を覗き込む。
息をのむ。
彼の藍色の瞳。そこにはまるで深い海の底のように、いっぱいの涙がゆらゆらと揺れていた。
「駿君?」
「どうして……」
語尾が聞き取れない程声が震えている。
「どうして、花菜が」
拳を強く握り、首を大きく横に振る。
「まだ分かんねえ。まだ」
顔を上げる。私と目が合う。そして私を抱き締める。
強く。強く。
「ねえ、どうしたの? 私、大丈夫なんだよ。何があったの?」
私の言葉を聞いて、彼の腕の力がさらに強くなる。
手が、震えている。
「熱が出るのは、体の最後の抵抗なんだ、って」
まだ分かんねえ、と、自分に言い聞かせるようにもう一度呟く。そして言葉を繋ぐ。
「小さなかすり傷でも熱が出ていたのに、それがなくなるっていうことは、もう、体が抵抗すら出来なくなっているってことだ。そうなったら」
私の頬に、彼の涙が伝う。
「もう、数か月ももたないって……」
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