9.狼たちの幸福は

「花菜の仕事や適当な家が見つかるまでは俺の家にいろ。でもな、客じゃねんだから、やるべきことはやってもらう」


 駿君は優雅な仕草でナイフとフォークを置くと、私をぎろりと睨み付けた。


「まず浴室。水回りの掃除は毎日するのが基本なのに、あの浴室の使い方からすると、花菜、掃除したことねえだろう。だからまずは使い終わった後、浴槽の湯を全部抜いてから浴室に水をかけて泡を落とし、排水溝の髪の毛を捨てて水栓やシャワーホースを拭くだけでいいからやれ。毎回必ずやれ。あと……」


 その後も、思わず「あなたの正体は『狼』じゃなくて専業主婦でしょう」と言いたくなるような、こまごまとしたルールを散々語られた。

 「躾の厳しいお坊ちゃん育ち」との生活は、決して甘く切ないだけのものではないのだ。


 勿論、理解はしているけれど。

 彼がここまでこまごま口うるさいのは、私がいずれ一人で生活する上での「知識と情報」を授けてくれようとしているからだ、ということを。




 もう二度と来ることはないだろうと思っていたマンションに再び足を踏み入れ、ベッドに横になる。


 学ばなければ。

 彼が私の心に応えてくれることはないが、それでも私のことを大切に思ってくれている。

 ならば、彼の期待に応えたい。そのためにまずは家事を習得しないといけないし、常識的な漢字くらいは覚えないといけない。

 そしていずれは「普通」の人のする仕事を得て、「普通」に暮らしたい。俯かずに、真っ直ぐ駿君の目を見て微笑みたい。

 顔を上げて「今までありがとう。さようなら」と言い、互いに微笑み合いながら家を去りたい。

 きっと彼は、そうなることを望んでいるから。




 翌朝、リビングに入ると、そこは異次元空間になっていた。


 床にはキルティング素材でできた水玉模様の敷物が敷かれ、布製のカラフルなアーチに、くまさんや鳥さんがぶら下がっているおもちゃなどがごちゃごちゃと置かれている。

 パステルでファンシーでメルヘンチックな世界。

 要は駿君のイメージからもっとも遠い。


「おはよう。駿君、何これ」


 キッチンでコーヒーを淹れている駿君に向かって声をかける。彼は振り向くと、無表情で答えた。


「おはよう。ああ、これ、ベビージム。で、何飲む」


 あまりにさらりとそう訊かれたので、うっかり「ココア」と普通に答えてしまった。


「って、そうじゃなくて。これ多分、赤ちゃんのおもちゃとかだよね。なんでこんなところに」

「今日、これから赤ん坊が来るから」

「赤ん坊って、ま、まさか、駿君の?」

「おもしれえこと言うなぁ」


 口の端だけで少し笑って淡々と流され、ココアを手渡された所で来客を告げるチャイムが鳴った。

 しばらくすると、あのカフェにいた親しげな店員が、赤ちゃんを抱っこ紐で体の前に括りつけた状態で飛び込んで来た。


「来て早々ごめん! エレベーターの中でやらかしちゃったよ。おむつ替えるねっ」


 店員は私の方をちらりと見て笑顔で会釈すると、そのままリビングの敷物の上に座り込んだ。

 彼が通り過ぎる瞬間、ぷーんと何かがにおう。


 なるほど。赤ちゃん、やらかしちゃったのね。


 店員は抱えていた大きなバッグの中からシートを取り出し、その上に赤ちゃんを寝かせ、手慣れた仕草でおむつの処理をしている。駿君はこの状況に慣れているのか、座ってコーヒーを飲みながら眺めている。

 私の存在は完全に置いてきぼり状態だ。




 一通り騒ぎが済んだ後で、店員は赤ちゃんを「ベビージム」というアーチにおもちゃがついたものの中で遊ばせながら、駿君の出したコーヒーを飲み始めた。


「あの」


 私と店員が同時に駿君に声をかけた。多分、聞きたいことはお互い同じだ。


「こいつは花菜。妹みたいなもん。しばらくここに置いておく。こいつは矢木やぎ。いつも行くカフェの店員で『狼』。で、あの子は矢木のガキ」


 今の言葉で説明しつくしたつもりらしい。これ以上彼に説明をさせても全部この調子な気がしたので、私は直接矢木さんに話しかけた。


「私は駿君の幼馴染です。母親とトラブルを起こして家を出ざるを得なくなったので、今、駿君にお世話になっています。あ、駿君が『狼』なのは知っていますので、遠慮しないでお話して下さいね」


 私の言葉を受けて、矢木さんは微笑んで頷いた。

 いかにも接客に向いていそうな、人好きのする笑顔。

 私はその眩しさに思わず俯いた。


「で、私が何をしていた人間か、『狼』なら、お分かりになりますよね……」

「まあね」


 矢木さんは、軽く相槌を打って肩をすくめた。


「昨日、『昼』に店の前で揉めていたし、『夜』、店の前を歩いていたのも見ていたからね」


 やはり見ていたんだ。だとすれば、昨日、私の行動を駿君に言ったのだろうか。


「そうだ、あのさ、これから俺ら、少し話したいんで、悪いんだけどこの子、あ、のぞみって言うんだけどさ、見ていてくれないかな。寝返りはするけどはいはいはまだだから、そんなに動き回らないから。いいかなあ」


 私が昨日のことを思い返していた時、矢木さんが急にそんなことを言ってきた。


「え、私、赤ちゃんのお世話なんて、したことないです」

「世話っつーか、見ていればいいんだよ。平気平気」


 駿君までそんなことを言う。

 そりゃ駿君は育児経験者だから余裕だろうけど。経験って、私の世話のことだけれど。


「じゃあよろしく」


 私の同意も得ないまま、二人はそう言って仕事部屋に入っていった。

 一旦ドアが閉じられ、すぐに開いて矢木さんが顔を出した。


「そうだ、俺の自己紹介がまだだった。俺はあの店の店員で、狼と言ってもまあ、情報係みたいなもんかな。でさ、俺が赤ん坊を連れてまでこんな事をやっている理由は、何となく、分かるでしょ」


 矢木さんの笑顔が、氷の様に冷たく強張ったものに変化した。


「俺さ、結婚して、まだ一年だったの。嫁はね、希の一カ月検診の帰りに」


 矢木さんは冷たい笑顔を張り付かせたまま、それ以上語ることなくドアを閉めた。




 希ちゃんは、ベビージムにぶら下がったおもちゃを、小さな手でぺしぺしたたいている。その可愛らしい姿を見て、胸が痛む。


 吸血種によって、駿君や矢木さんのように幸せそのものだった人達が、奈落の底に突き落とされ、人生を狂わされた挙句に、「狼」という業を自ら背負う道を歩むことになってしまった。


 そして私は、狼達の仇である吸血種の餌だ。仇の糧だ。


 彼らは私のこの首筋を見て、どう思うか。きっと大切な人の変わり果てた姿と、その首筋に付けられた牙の跡を、いやでも思い出すだろう。


 希ちゃんはおもちゃに飽きてしまったのか、ごろごろと寝返りを打ちながらぐずりだした。

 おっかなびっくり抱っこしてみる。希ちゃんは、ぷよんぷよんしていてミルクの甘い匂いがする。

 抱っこしてもぐずぐず泣いているので、私は遠い記憶をたどって、うろ覚えの童謡を歌ってみた。


 私がまだ小さな頃、童謡を歌ってくれたのは駿君のお母さんと、駿君だ。

 私の中の、幸せであたたかな記憶。童謡には、きらきらのお日様や真っ赤な夕焼け、まんまるの月がうたわれていた。

 そんな夢の世界を心の中で思い描き、大好きな人に囲まれて過ごす、あの時間。あの幸せな時間を、少しでも希ちゃんに分けてあげたい。そう思いながら、多分間違いだらけの歌詞の童謡を歌い続けた。




 私の歌を聞きながら、いつの間にか希ちゃんは眠っていた。その安らかな寝顔を見つめた後、仕事部屋のドアに目を向ける。


 ドアの向こうには、「狼」達がいる。

 きっと希ちゃんに聞かせたくないような話をしているのだろう。その手には、あの銀色に光る巨大な拳銃があるかもしれない。


 吸血種を消す。

 それが、本当に彼らの魂の救いになるのだろうか。

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