2.愛されているのに、叶わない想い

1.愛情が深く抉る

 駿君の家に来てからしばらく経った。

 最初のうちは何をやっても注意されていた家事もだいぶ慣れた。今では掃除や洗濯の殆どは私がやっている。


 普段の駿君の一日は淡々としている。

 基本的に仕事部屋にこもっているが、スーツを着てどこかに出かけることもある。

 食事は一日二回で全て外食、野菜中心で少食だ。お酒は飲まないし、趣味もない。


 だが、そんな日常の隙間に、時折「狼」が立ち上がり、牙を剥く。


 普段から小型の銀の拳銃を持ち歩き、大ぶりの銀の指輪を左手中指に嵌めている。吸血種は銀に触れると皮膚が火傷になるため、奴らが使えない銀の拳銃や、人間と吸血種を見分けやすくする銀の指輪は欠かせないのだ。


 そして皆が寝静まる頃、私になにも告げず、黒衣姿で外に出る。

 吸血種も、多くは人間同様「昼型」の生活を送っている。だが吸血種の犯罪は「夜」に行われることが多いし、そもそも「昼間」に派手に銃を使うと人目につく恐れがあるので、駿君の「狼」としての活動時間は主に「夜」だ。


 私は、「夜中」に彼が帰って来たのに気がついても、寝たふりをして出迎えない。

 青ざめ、端整な顔を憎悪と恨みに歪め、火薬の臭いをさせている自分の姿は、きっと見られたくないだろうから。




「花菜、病院にかかったことねえだろう。一度色々診てもらえ」


 ある日、駿君にいきなりそう言われ、車で病院に連れて行かれた。


「なんで。私、別にどこも悪くないよ」

「うん。まあ健康診断だと思って」


 駿君の意図がよく分からぬまま到着した先は、古くて小さな内科医院だ。明かりはついていない。


「今日ここ、お休みなんじゃないの」

「休みだよ。だから来たんだ」


 そう言って駿君が入り口の呼び鈴を押すと、中から眼鏡をかけた、やたら背の高い男性が不機嫌そうに出てきた。

 顔だけ見ると知的で結構整っているのに、伸び放題の髪の毛の後頭部は寝癖でつぶれ、サイドに白い線の入ったあずき色のジャージのズボンは膝が白くなっている。しかも長い脚を隠しきれずに足首丸出し状態だ。


「俺最近忙しいんだけど。医院ここの経営持ち直してきたから、そろそろは縮小し」


 その男性――ここの医師なのだろう――は、私の方を見ると、なぜか目を見開いて固まった。

 私に向かって視線も外さず動きもしない。私はそんな彼に対して、どういう態度を取ったらいいのか分からず俯いた。


「先輩、花菜を連れてきた」

「…………」

「こいつ、昨日電話した通りで」

「…………」

「先輩?」

「…………」

「せんぱい……」

「…………」

「おいてめえ、何とか喋れよコラ!」


 どう聞いても診察をお願いする態度ではない暴言とともに、駿君は医師の寝癖のついた後頭部をひっぱたいた。「先輩」と呼ばれていた医師は、駿君のあんまりな仕打ちにようやく我に返り、口を開いた。


「いやだって『はなちゃん』が来るっていうから、なんとなく八歳か九歳位のイメージでいたんだよ。はなちゃん、俺、覚えていないかなあ。駿と同じ中学で二コ先輩の、渡貫わたぬきっていうんだけど。こいつの家に行った時、はなちゃんと一緒に遊んだりしたんだけどなあ。覚えていないよなあ」


 彼には申し訳ないが、覚えていない。駿君の家には色んな友達が来ていたから。私が顔を出すと大体邪険にされたが、たまに一緒に遊んでくれる人もいた。そのうちの一人なんだろうか。


「そうか」


 渡貫さんは私と駿君を診察室に促しながら、私の方を見て言った。

 しみじみと。

 駿君とは違う目で。


「はなちゃん、きれいになったね」




 診察に入る前に、駿君からようやく色々な説明があった。


「こいつは俺の中学の先輩で渡貫っていうヤブ。一応専門は内科だけど、休診日に狼や売血者なんかの、一般の病院に行きにくい奴らの治療を何でもやっている。売血を続けていると体に負担が掛かるから、一度きちんと診てもらった方がいい。気になるなら傷痕も治せるしな」


 そう言って微笑む。だが、いくらなんでもここまでしてもらうのは駿君に申し訳ない。それに実は今、物凄く体調がいいのだ。

 しばらく売血をしていないし、快適で上質過ぎる衣食住環境のおかげで、あんなに悩まされていた冷えや飢餓感が嘘のようだ。だから確かに首の傷痕は気になるが、それ以外は平気なのだけど。


「売血をしていない人でも、年に一回は健康診断を受けた方がいいんだよ。だから色々診てみよう、ね。それにほら、傷痕もきれいにしてみたいと思わない?」


 渡貫さんも一緒になってそう言う。遠慮の言葉が喉の奥まで出かかったが、ここまで来てそれも却って申し訳ない気がしたので、私は頷いて駿君に礼を言った。


「じゃあ駿、お前出ていけ」

「え、なんで」

「なんで、じゃねえだろこのばか」


 渡貫さんは椅子を蹴って立ち上がり、診察室から駿君を追い出した。


「これからな診察があるんだよ。お前なあ、彼女はもう『はなちゃん』じゃねえんだよ。いい加減気づけよこの変態!」


 駿君達の中学は、有名な名門お坊ちゃん学校だと聞いていたが、この口の悪さは校風なんだろうか。

 渡貫さんは駿君を追い出すと、ふん、と一つ大きな鼻息を鳴らした。


「さて」


 椅子に戻った渡貫さんは、優しい笑みを浮かべて私の方に向き直った。


「じゃあ、始めます。駿から話は少し聞いている。言いたくないこともあるかもしれないけれど、できるだけ正確に教えてくれるかな……」




 その後、売血を始めた時期や吸血の頻度などを色々訊かれ、血を採られたり内臓の画像だかを撮られたりよく分からないことを色々やった後、傷痕の話になった。


「俺も色々診ているけどね、正直、ここまでひどい状態の傷は見たことがない。しかも首筋だけじゃなくて腕も、だ。治るまでに時間がかかるよ。それに多分、完全にはきれいにならない。パッと見目立たないくらいにはなると思うけれど」

「ありがとうございます。この傷が薄くなるなんて、夢みたいです」

「そのセリフ、あのドアの外にいるお兄ちゃんにも言うんだよ。お友達価格にはするけど、最低限の料金はきっちりもらうから」


 あえて、なのだろう、渡貫さんは冗談めかして言った。私は黙って頷く。駿君には、どんなお礼をしたらいいのか分からない。


「ただね、この傷の治療は単なる美容の問題だよ。それより本当に気にしなきゃいけない事がある。俺の方からあとで駿にも話しておくよ。一応、行野さんの保護者代わりだからね」


 そう前置きをした上で、渡貫さんは椅子に座り直した。


「度重なる売血で、行野さんの体の機能は全体的に低下しているんだ。これは『生き物でない者』によって引き起こされた問題だから、『人間』の医療では根本的な治療が出来ない。だからこれ以上悪化させない唯一の方法は、今後絶対に吸血種に血を吸われないこと。これ以上吸血種の手にかかったら命に関わる。だからいいね、吸血種には、くれぐれも気をつけるんだよ」




 帰りの車の中で、駿君は押し黙ったままずっと前方を睨み付けていた。

 あの後、渡貫さんは駿君だけを呼んで話をした。私は渡貫さんの話を聞いて、ああ、あの時駿君の家に戻ったのは正解だったんだなあ、とか、そんなに具合が悪いとは思えないんだけれどなあ、くらいにしか思わなかったが、駿君は結構ショックを受けてしまったらしく、渡貫さんに支えられるようにして診察室から出てきた。


「駿君、大丈夫だって。ごめんね、嫌な思いさせちゃって。本当に色々ありがとう。もう、なんてお礼を言ったらいいのか」

「礼をされるような事をした覚えはねえし」


 私の言葉を強い口調で遮り、駐車場に車を停めて降りた。エレベーターに乗っている間も、私の言葉を拒否するかのように黙り込んだままだった。


 家の中に入り、リビングに向かう。

 その時、背後から駿君に強く抱きしめられた。


 力強く、あたたかな両腕。

 胸が、ぎゅっと熱く締め上げられる。


「花菜は俺が守る。守るから。だから」


 両腕の力がさらに強くなる。私の穢れた首筋に、彼の頬が寄せられる。


「頼む。お前まで、いかないでくれ……」


 絞り出すような声でそう囁くと、まるで消えてなくなるものにすがるように、彼は私を包み込み、強く強く抱きしめた。




 知らなかった。

 彼がここまで私のことを大切に思ってくれていたなんて。

 私を失うことを、そんなにも恐れていたなんて。


 そして、知らなかった。


 大好きな人に、恋い焦がれている人に大切に思われ、抱き締められる。

 けれどもその思いが自分の想いと違う所から来ているとき、その彼の愛情が、これほどまでに自分の心を深くえぐるなんて。

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