5.狼よ、白き薔薇を抱いて眠れ

1.喪失

 花菜をうしなってから、多分一週間位経っていると思う。


 正確に何日経ったかは分からない。あの日を最後に、俺の中の時間は止まったままだ。

 二日酔いの強烈な頭痛と吐き気で目が覚める。今日はソファの上で寝ていたからまだましだ。床に転がって寝ていると体中が痛くなる。

 ドアを開け放した寝室の方へ這うように向かう。そしてベッドの縁に座る。


 ここに、花菜が眠っていた。

 あの日の前の「夜」、冷たく震える花菜の華奢な体を抱き締めながら、いっそ自分の体温すべてが花菜に移ればいいのにと思った。どうして花菜が、こんなにも苦しまなければならないのかと思った。そしてこの世界の理不尽を呪った。


 どうして吸血に対する抵抗力はこうも差があるのだろう。俺は過去に何度も返り討ちに遭っている。集団に襲われ、死線を彷徨さまよったことは一度や二度ではない。だがその度にあっさり回復し、こうして生を繋いでいる。

 花菜がいないこの世界で、未だに生を繋いでいる。


 花菜の眠っていたシーツに触れる。触れた左手には、いつも中指に嵌めていた銀の指輪はない。あるのは薬指に嵌められたプラチナの結婚指輪だ。

 花菜が何度も取り落としながら、震える指で嵌めてくれた結婚指輪。陽の光の降り注ぐ中で永遠の愛を誓い、神の御前で二人が結ばれた証。

 だが、その直後に、花菜の命の灯は消えた。


 花菜の眠っていたベッドがある。花菜の嵌めてくれた指輪がある。

 なのに、花菜はどこにもいない。


 頭痛が酷くなってきたので、ベッドの脇の床に寝転ぶ。ベッドの上に寝ると花菜が汚れるような気がして、あの日以降一度も使っていない。

 指輪を包み込むように体を丸める。いい加減枯れ果てただろうと思っていた涙がまた溢れ出す。

 そのまま悔恨と喪失感のくらい泥沼に沈み込む。


 あの日からずっと、こうして無駄に生を繋いでいる。




 来客を告げるチャイムが鳴ったが、無視した。しばらくするとスマートフォンの着信音が鳴ったが、無視した。その後も何度か繰り返しチャイムと着信音が鳴ったが、全て無視した。


 静かになったと思ったら、今度は玄関のドアをノックする音が聞こえた。何故エントランスを開錠していないのにここまで来られたのか、少し疑問に思ったが、このまま出なければ諦めるだろうと思って無視することにした。

 コンコンというノック音がドンドンと叩く音に変わり、やがてドカドカとドアを足蹴にする音に変わるに至って、漸く俺は観念してドアを開けた。

 ドアの外では、慣れない乱暴行為に息を切らせた渡貫が、怒りの形相で仁王立ちになっていた。


「いるなら開けろ! 文化系の俺に無駄に体力を使わせるんじゃない!」


 そう叫ぶや靴を脱いで勝手に部屋の中に上がり込んだ。


「なんだこの部屋は。俺の部屋より汚いじゃないか」


 渡貫はリビングをぐるりと見回した後、俺の方に向き直った。


「……荒れているな」


 その言葉には答えず、視点の定まらない目でなんとなく渡貫を見る。足元の覚束ない俺を見て、彼は俺をソファに促し、自分も隣に座ろうとしたが、思い直したように俺の目の前にかがみ込んだ。


「俺はここでいいや。このソファのこの位置は、花菜さんが座る場所なんだろ」


 こく、と頷いたのと同時に、また涙が浮かんだ。渡貫には、一体何度この情けない泣き顔を見られたことだろう。


 長い脚を窮屈そうに折り曲げた渡貫は、俺を見上げて低く穏やかな声で語り掛けた。


「つらいよな」


 俺がその言葉を咀嚼するまでじっと待つ。そして言葉を続ける。


「あのさ、今、花菜さんが天国と地獄どっちにいるかっていうと、まあ百パー天国だろ」


 頷く。あんなに透き通った心の持ち主が天国でなければ、一体天国は誰のためにあるのだ。


「じゃあさ、多分今、駿の事を天国から見下ろしているんじゃないか。もしそうだとしたら、どうなんだ今のこの状態」


 渡貫はリビングを指差した。


「ここ、毎日花菜さんが掃除していたんだろ。前に彼女が言っていたぞ、『駿君、掃除に関して凄く厳しいんです。そのうちさんを指でなぞって埃チェックとかしそうな勢いなんです』ってな。凄く、楽しそうに」


 花菜が初めてこの家に来た時、家事が一切出来ず、かな以外殆ど字が読めなかった。俺は彼女に自立して欲しかったので、口うるさいだの専業主婦だの言われながら、色々教えた。

 花菜はなんでもすぐに覚えた。そして毎日せっせと掃除や衣類の手入れをしてくれた。


「花菜さんが毎日一生懸命きれいにしてくれていた部屋をさ、駿がこんなにしてどうするんだよ」


 俺の焦点の定まらない目を射るように見る。


「花菜さんは、駿のことばかり気にかけていた。自分の治療の為に俺の所に通っていたのに、駿のことばかり心配して、自分の人生丸ごと棚に上げて駿の幸せばかり願っていた。なのに、そのお前がこんな状態でどうするんだよ」


 非難するような口調ではなく、穏やかに諭すように語り掛ける。

 だからこそ、心に深く突き刺さる。


「つらいよな。物凄く、寂しいし、悲しいんだよな。でもな、天国の花菜さんを心配させたり悲しませないように、立ち上がることは出来ないだろうか。すぐには無理かも知れないけど、まずはせめて、少しだけ酒を控えるところから始めないか。俺、今日の所はこれで帰るよ。これからもたまに様子見に来る。駿がまた立ち上がれるよう、ちょっとは支えになるからさ」


 渡貫は、よいこら、しょ、と年寄りじみた掛け声とともに立ち上がった。


「先輩」


 後を追うように立ち上がって声を掛ける。


「ありがとう。先輩だって……」

「そうさ、勿論」


 俺が言う前に渡貫は言葉を被せた。

 口元だけは微笑の形を作っていたが、眼鏡の奥の目が悲痛な叫びをあげていた。


「俺だって。でもな」


 語尾が震え、言葉が一瞬途切れる。そして俺の肩を軽く叩き、口元の微笑の形を作り直す。


「駿は、花菜さんの旦那だ。そして俺は、お前の先輩だ」


 またな、と言って渡貫は帰って行った。


 花菜を愛しながら退き、どうしようもない俺を支えてくれる「先輩」に、俺はただ、黙って頭を下げることしか出来なかった。




 それから長い時間、俺はソファの上で座ったまま動かなかった。

 その後立ち上がり、一階のコンシェルジュデスクに向かった。




 他の住民と話していた木村さんは、俺の姿を認めると軽く会釈をした。


「さっき、渡貫を部屋の入り口まで入れたのは木村さんですか」

「さようでございます」


 悪びれる風もなく木村さんは答えた。


「おかげでここに足を運ぶくらいの気力は取り戻しました」

「それはようございました」


 木村さんは全ての事情を知っている。その上で、俺が自分からここへ来るまで待っていたのだろう。


「今日、ここの業務の後、少しだけうちに寄ってもらえますか」

「かしこまりました。いかがなさいましたか」

「時間は取らせません。ただここでは言いにくい話がしたいんです」


 木村さんの目つきが変わった。


「例の件です。『木村室長』の力を、借りたいんです」

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