5.狼よ、白き薔薇を抱いて眠れ
1.喪失
花菜を
正確に何日経ったかは分からない。あの日を最後に、俺の中の時間は止まったままだ。
二日酔いの強烈な頭痛と吐き気で目が覚める。今日はソファの上で寝ていたからまだましだ。床に転がって寝ていると体中が痛くなる。
ドアを開け放した寝室の方へ這うように向かう。そしてベッドの縁に座る。
ここに、花菜が眠っていた。
あの日の前の「夜」、冷たく震える花菜の華奢な体を抱き締めながら、いっそ自分の体温すべてが花菜に移ればいいのにと思った。どうして花菜が、こんなにも苦しまなければならないのかと思った。そしてこの世界の理不尽を呪った。
どうして吸血に対する抵抗力はこうも差があるのだろう。俺は過去に何度も返り討ちに遭っている。集団に襲われ、死線を
花菜がいないこの世界で、未だに生を繋いでいる。
花菜の眠っていたシーツに触れる。触れた左手には、いつも中指に嵌めていた銀の指輪はない。あるのは薬指に嵌められたプラチナの結婚指輪だ。
花菜が何度も取り落としながら、震える指で嵌めてくれた結婚指輪。陽の光の降り注ぐ中で永遠の愛を誓い、神の御前で二人が結ばれた証。
だが、その直後に、花菜の命の灯は消えた。
花菜の眠っていたベッドがある。花菜の嵌めてくれた指輪がある。
なのに、花菜はどこにもいない。
頭痛が酷くなってきたので、ベッドの脇の床に寝転ぶ。ベッドの上に寝ると花菜が汚れるような気がして、あの日以降一度も使っていない。
指輪を包み込むように体を丸める。いい加減枯れ果てただろうと思っていた涙がまた溢れ出す。
そのまま悔恨と喪失感の
あの日からずっと、こうして無駄に生を繋いでいる。
来客を告げるチャイムが鳴ったが、無視した。しばらくするとスマートフォンの着信音が鳴ったが、無視した。その後も何度か繰り返しチャイムと着信音が鳴ったが、全て無視した。
静かになったと思ったら、今度は玄関のドアをノックする音が聞こえた。何故エントランスを開錠していないのにここまで来られたのか、少し疑問に思ったが、このまま出なければ諦めるだろうと思って無視することにした。
コンコンというノック音がドンドンと叩く音に変わり、やがてドカドカとドアを足蹴にする音に変わるに至って、漸く俺は観念してドアを開けた。
ドアの外では、慣れない乱暴行為に息を切らせた渡貫が、怒りの形相で仁王立ちになっていた。
「いるなら開けろ! 文化系の俺に無駄に体力を使わせるんじゃない!」
そう叫ぶや靴を脱いで勝手に部屋の中に上がり込んだ。
「なんだこの部屋は。俺の部屋より汚いじゃないか」
渡貫はリビングをぐるりと見回した後、俺の方に向き直った。
「……荒れているな」
その言葉には答えず、視点の定まらない目でなんとなく渡貫を見る。足元の覚束ない俺を見て、彼は俺をソファに促し、自分も隣に座ろうとしたが、思い直したように俺の目の前にかがみ込んだ。
「俺はここでいいや。このソファのこの位置は、花菜さんが座る場所なんだろ」
こく、と頷いたのと同時に、また涙が浮かんだ。渡貫には、一体何度この情けない泣き顔を見られたことだろう。
長い脚を窮屈そうに折り曲げた渡貫は、俺を見上げて低く穏やかな声で語り掛けた。
「つらいよな」
俺がその言葉を咀嚼するまでじっと待つ。そして言葉を続ける。
「あのさ、今、花菜さんが天国と地獄どっちにいるかっていうと、まあ百パー天国だろ」
頷く。あんなに透き通った心の持ち主が天国でなければ、一体天国は誰のためにあるのだ。
「じゃあさ、多分今、駿の事を天国から見下ろしているんじゃないか。もしそうだとしたら、どうなんだ今のこの状態」
渡貫はリビングを指差した。
「ここ、毎日花菜さんが掃除していたんだろ。前に彼女が言っていたぞ、『駿君、掃除に関して凄く厳しいんです。そのうち
花菜が初めてこの家に来た時、家事が一切出来ず、かな以外殆ど字が読めなかった。俺は彼女に自立して欲しかったので、口うるさいだの専業主婦だの言われながら、色々教えた。
花菜はなんでもすぐに覚えた。そして毎日せっせと掃除や衣類の手入れをしてくれた。
「花菜さんが毎日一生懸命きれいにしてくれていた部屋をさ、駿がこんなにしてどうするんだよ」
俺の焦点の定まらない目を射るように見る。
「花菜さんは、駿のことばかり気にかけていた。自分の治療の為に俺の所に通っていたのに、駿のことばかり心配して、自分の人生丸ごと棚に上げて駿の幸せばかり願っていた。なのに、そのお前がこんな状態でどうするんだよ」
非難するような口調ではなく、穏やかに諭すように語り掛ける。
だからこそ、心に深く突き刺さる。
「つらいよな。物凄く、寂しいし、悲しいんだよな。でもな、天国の花菜さんを心配させたり悲しませないように、立ち上がることは出来ないだろうか。すぐには無理かも知れないけど、まずはせめて、少しだけ酒を控えるところから始めないか。俺、今日の所はこれで帰るよ。これからもたまに様子見に来る。駿がまた立ち上がれるよう、ちょっとは支えになるからさ」
渡貫は、よいこら、しょ、と年寄りじみた掛け声とともに立ち上がった。
「先輩」
後を追うように立ち上がって声を掛ける。
「ありがとう。先輩だって……」
「そうさ、勿論」
俺が言う前に渡貫は言葉を被せた。
口元だけは微笑の形を作っていたが、眼鏡の奥の目が悲痛な叫びをあげていた。
「俺だって。でもな」
語尾が震え、言葉が一瞬途切れる。そして俺の肩を軽く叩き、口元の微笑の形を作り直す。
「駿は、花菜さんの旦那だ。そして俺は、お前の先輩だ」
またな、と言って渡貫は帰って行った。
花菜を愛しながら退き、どうしようもない俺を支えてくれる「先輩」に、俺はただ、黙って頭を下げることしか出来なかった。
それから長い時間、俺はソファの上で座ったまま動かなかった。
その後立ち上がり、一階のコンシェルジュデスクに向かった。
他の住民と話していた木村さんは、俺の姿を認めると軽く会釈をした。
「さっき、渡貫を部屋の入り口まで入れたのは木村さんですか」
「さようでございます」
悪びれる風もなく木村さんは答えた。
「おかげでここに足を運ぶくらいの気力は取り戻しました」
「それはようございました」
木村さんは全ての事情を知っている。その上で、俺が自分からここへ来るまで待っていたのだろう。
「今日、ここの業務の後、少しだけうちに寄ってもらえますか」
「かしこまりました。いかがなさいましたか」
「時間は取らせません。ただここでは言いにくい話がしたいんです」
木村さんの目つきが変わった。
「例の件です。『木村室長』の力を、借りたいんです」
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