6.初めての手料理
木村さんから封筒を渡されてから何日か経った。その間、大きな変化は何もない。
私の体調も、駿君との関係も。
最近駿君は仕事が忙しいらしく、朝早くから夜遅くまで働き詰めだ。そしてそれだけ仕事をした後、遅い時間に黒衣姿で出掛ける。
食事も睡眠も全然取れていない。私と顔を合わせることすら殆どない状態だ。
そんな毎日が続いたせいだろう。彼はついに夕食の時、フォーク片手に居眠りをはじめてしまった。
手にしていたフォークを取り落とし、首ががくんと前に倒れた拍子に「おおぅ」と呟いて目が覚める。ここが家の中でよかった。
「駿君、食事中に居眠りするなんてよっぽど疲れているんだよ」
希ちゃんはよく離乳食を食べながら白目を剥いて寝てしまうが、あれは赤ちゃんだから許されるのだ。
駿君はテーブルに肘をついて頭を抱え――彼が食事中テーブルに肘をつくなんて、相当限界に来ているのだろう――大きな溜息をついた。
「ああ、でも、これも今日までだから」
「今日まで?」
「そう」
疲れてはいるものの、どこか吹っ切れたようなさっぱりとした顔で私を見る。
「最低限のものを残して、事業から手を引く。今まで忙しかったのは、平たく言うと仕事を辞める準備をしていたからなんだ」
え、仕事を辞める?
「仕事辞めちゃったらこれからどうするの? 家賃は? 狼の装備って凄くお金かかるんでしょ? それに老後だって」
思いつくことをまくし立てる私を制して、淡々と答える。
「このマンションは購入済みだし、別に全部の仕事を辞めるわけじゃねえ。それなりの資産もある。だからそんな事、花菜が心配しなくてもいい。それよりも俺は、もっと時間が欲しかった」
駿君は私の顔を見て柔らかく微笑んだ。
「もっと花菜と一緒に過ごす時間が欲しかった」
そして少し恥ずかしそうに俯く。
「ほら、いきなりで強引なのは俺の得意技なんだろ?」
私は食事の手を完全に止め、彼を見つめた。
「駿君」
私は、そこまで想ってもらっていたのか。
「強引というか、極端なんだよ、もう……」
駿君は、仕事を辞めてまで私との時間を作ってくれた。
残り少ない、私との時間を。
「ありがとう」
ごめんね、とも、そんな事しないで、とも言わない。
今はもう、彼の心を素直に受け止め、感謝しよう、と思った。
きっとそれが、彼が望んでいることだから。
彼は向かい合ったテーブルの向こうから手を伸ばし、私の頬にそっと触れた。
「これからは、ずっとそばにいる」
だが、そこで頬に触れていた手が止まる。
「あと一つ、残っていることが片付けば」
結局、駿君はこの日も遅くまで仕事をし、「明け方」に黒衣姿で帰って来た。
「朝」、どろんとした目でコーヒーを飲んでいた駿君を、仕事部屋の簡易ベッドへと追い立てる。
「もう、今日は『駿君の休息日』にしよう。だから一日寝ていてよ」
私の言葉に、駿君は思ったより素直に休息モードに入った。彼を起こさないよう家事を済ませ、時計を見る。そろそろ「約束」の時間だ。
出掛けることを駿君にメールで伝え、鍵と手土産を持って部屋を出る。
ご主人が駿君のお父さんの会社に勤めている、鈴木さんの家は十九階にある。一昨日、また「自炊しなさい」と言われたので、思い切って料理を教えてくれるようお願いしてみたのだ。
鈴木さんは快く引き受けてくれた。それで今日、お邪魔している。
「あら如月さん、どうぞどうぞ。散らかっているけど気にしないでね」
そう言われて上がった家の中は、子供のものこそ多いが、そこそこきれいに片付いている。私はもともとの「散らかっている」基準値が強烈に高いので、これでもピカピカに見える。
モデルルームみたいな駿君のうちもいいけれど、こういうごちゃごちゃ感も、なんだかいいな、と思う。
「さ、早速始めましょ。そんなに難しくないから大丈夫。お兄さん、びっくりするわよう」
「本当に本当に本当に大丈夫なのか? そのエビの命は無駄にならないか? 怪我ややけどや食あたりでおおごとになっても、今日は渡貫すぐには来られねえぞ?」
「うわー、すっごい失礼なんだけど! 私、上手だって、鈴木さん褒めてくれたもん!」
今日の夕食は私が作る、と高らかに宣言した直後から、心配性のお兄ちゃんモード全開で、駿君がびしびし横やりを入れて来る。料理中もずっとうるさい。
そうだ、この人はこういう人だったんだ。格好良く料理をする私を見て、「花菜、素敵だよ」って言ってくれて、そして……、なんて、甘いというかぬるいことを考えていた私が間違っていた。
鍋類は鈴木さんから借りた。これで、「私の手料理を駿君に食べてもらう」という夢が叶う。
結論から言うと、夕食自体はまあまあうまく出来たし、駿君もおいしいと言ってくれた。
ただ結構がっかりだったのが、実は駿君は料理が出来るのだそうだ。今までは単に面倒臭がって作らなかっただけらしい。
「家で母の手伝いもしたし、学校でもやったし」
「なあんだ。自分でも出来るのかあ。んー、折角格好良く料理してみたのになあ」
エビフライに罪はないのだが、思い切りぐさりと箸を突き立ててふてくされてみる。
「さっきまでのあの姿が格好良いかどうかは置いておいて」
優雅なしぐさで食事をしていた駿君は、食べ終わると、するりと滑らかな動きで箸を置き、私をまっすぐ見た。
「手料理なんか、久しぶりだ」
そして微笑む。
「ありがとう」
微笑んで、私のことをじっと見つめる。
ずるい、と思う。
この微笑は、ずるい。
嬉しくて嬉しくて、もう何も考えられなくなってしまう。
「で、明日だけど」
舞い上がる私の心を放置して、駿君はすぐに別の話題に入った。
「本当にまたあの遊園地でいいのか?」
「う、うん。だって楽しかったんだもん」
「絶叫系は乗らないからな」
「えー」
「えー、じゃねえよ。絶っっ対乗らない!」
相当絶叫マシンが心の傷になったのだろう。私はしぶしぶ引き下がった。
「なによう。じゃあいいもん。観覧車さえ乗れればあ」
「よし。あ、あと」
そこで彼は何故か一瞬言葉を切った。
「旅行、どの辺りに行きたい?」
おっと、早くも次の話題か。いきなりだなあ。
「えーとねえ、折角だから街中よりも港の周辺がいいかなーって」
「港の周辺」
駿君は一度言葉を繰り返して、席を立ち、そのまま仕事部屋にこもってしまった。
ちくり、と胸に刺さる寂しさを抱え、食器を片付ける。
明日、あの遊園地へもう一度行くことにした。
前に行って楽しかったから、というのもあるが、実は別の目的が一つある。
観覧車だ。
この間、矢木さんとのメールのやりとりの中で聞いた。
最近、彼とはしょっちゅうメールしている。私の中で彼は完全に「お姉さん的な女友達」だ。
「あの遊園地行った事ある?」「あります」「もしまた行く機会があったら絶対に観覧車に乗って。如月さんと二人で」「観覧車好きです。乗ります。でもなんで?」「知らない? あそこ有名なんだよ」「ゆうめい?」「俺も嫁とつきあい始めの頃に乗った。だから効果は保障する」「何かいいことあるんですか?」「あるよ。如月さんには俺からは言わないからさ」「?」
「あそこの観覧車の中でキスしたカップルは、永遠に結ばれるんだよ」
「おーい、見てますかー。寝ちゃったー?」「ねてませんねてま」「送信前に読み直そうね」「すみません」「ケントウヲイノル! ビシッ!」
いかつい軍人みたいな人が敬礼している絵柄が送られてきて、会話は終わった。
以前、どこかで聞いた。「初恋は実らない」と。
私の場合、十六年間実らなかった初恋が、ようやく実った。実ったって言ってもまだ小さな蕾みたいなものだけれど。
「永遠に結ばれる」って、どういうことだろう。
話の流れからすると、あの観覧車の中でキスしたらしい矢木さんは、奥さんと結婚した。
でも、その後奥さんは吸血種の手にかかった。
私の命の限りは、もっと短い。今のところ、それが信じられない位体調は落ち着いているけれど。
時に限りがあっても、永遠、というものはあるのだろうか。
初恋のジンクスと、観覧車のジンクス。
それが私の身に、どう作用するのだろうか。
……ん?
うおぉ、今頃気付いたよ!
私ってば!
観覧車の中で一体何するつもりなのよう!?
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