5.全てが軋む様に

 目が覚めた時には、体調は元に戻っていた。だがそれ以上の精神的衝撃が強すぎて、私はベッドの中でぎゅっと体を縮めた。


 うぉぉ、私ったら!


 ほんの二、三時間前に駿君に応えてもらったばっかりだよ! なのに私ったら、私ったら、先走り過ぎにもほどがあるだろう!

 今見た夢の意味はよく分かる。よーく分かる。自分の心の中で十六年間じっくり熟成させた末にすっかり醗酵してしまった、願望というか欲望というか妄想というかが、ばっちり露骨に表れてしまった。

 あれは駿君と私の、けっ、結婚式の夢だ。


 やだやだやだやだ恥ずかしい! 別に夢なんだから何も言わなければ誰にも分からないものだけれど、でも恥ずかしいよう!


 今、駿君の顔を見たら、絶対に普通でいられない。思わず掛けてあった布団を頭からかぶってみる。


 あれ?

 私、布団ちゃんと掛けて寝ていたっけ?


 正確には寝た、というより倒れた、に近かった。気分が悪くて、とても布団をきちんと掛けるような余裕なんかなかったはずだ。

 おかしいなぁ、と思いながら布団から顔を出し、辺りを見回して、


「きゃぁぁぁ!」


 絶叫した。


「人の顔見るなり絶叫する元気があるならいいんだけどよ、なんなんだよ一体」


 ベッドの端に腰かけてこちらを見下ろしていた駿君は、少し首を傾げて不機嫌そうに言った。


「しゅ、駿君、どうしてここに?」


 隠れたところでどうしようもないのだが、布団に隠れて目だけ出して聞いてみる。彼は布団の上からそっと私に触れた。


「さっき声を掛けたのに返事がなくて、部屋ん中入ってみたら、花菜が青い顔で冷や汗かいて寝ていたから」


 私の額に手を置き、そのまま前髪をかき上げる。


「大丈夫か?」


 駿君の手の感触を感じながら、私は少し悲しくなる。

 また、心配をかけてしまった。これからもずっと、私は彼の心配の種でありつづけるのだろうか。


「うん、大丈夫。多分貧血のせい。ほら、私、血の中のナントカっていうのが足りないって渡貫さんが言っていたじゃない」


 私の言葉に駿君は少し微笑んで立ち上がった。多分、私が実際より症状を軽く言ったのに気づかないふりをしてくれている。


「で、今日は外で食っている暇ねえから、適当な昼飯買って来てくれって言おうと思ったんだけど」


 そんな忙しいのに、こうして付き添っていてくれたのだ。迷惑ばかりかけて、本当に申し訳ない。私は努めて明るい声を出した。


「いいよ。もう復活したから買ってくる。サラダとパンでいいんでしょ」

「サラダだけでいい」


 朝だってコーヒーだけなのに。まあいいや。私は髪の毛だけ簡単に整えて家を出た。




 「お昼」の時間は既に過ぎていた。

 ロビーに降りると、幼稚園バスの到着を待つ奥さん集団に遭遇した。長話につかまらないよう、気配を消して通り過ぎる。


「――そうなのよ、主人の会社如月系でしょ。丁度入社した年にほら、あの例の事件が起きたらしいのよね」


 彼女達の会話から「如月」の言葉が聞こえ、思わず立ち止まってしまった。

 心臓が打たれたように鈍く痛む。


 今喋っているのは、私によく「自炊しなさい」と言う鈴木さんだ。

 鈴木さんのご主人は、駿君のお父さんの会社に勤めている。あの会社は大きいので、グループ全体で見ると膨大な数の社員がいる。だから別に偶然というほどのものではない。

 そしてあの会社で「あの例の事件」と言ったら、一つしかない。


「怖いわよねえ。犯人結局分からなかったんでしょ?」

「そうそう。今もまだその辺に犯人がいるかもしれないのよ。物騒よね。だから子供、目が離せないわよね」


 うんうん、と一同大きく頷く。


「本当嫌だわ、吸血種。そういえばあの会社の社長にもね、子供がいたらしいんだけれど、事件後行方不明になったんですって。うちの主人、あのなくなった社長の信者だから、その子の事未だに気になっているみたい」

「今頃どうしているのかしらね。可哀想にその子、大変な思いをしたでしょうねぇ」


 その子は今、ここの三十二階で仕事しています、とも言えず、ひっそりと立ち去ることにした。


「あ、そうだ。これ主人から預かっていたんだ。ちょっと木村さんに渡して来るわね」


 鈴木さんはバッグから白い封筒を取り出した。


「木村さん?」

 

 他の奥さんが怪訝そうな顔をする。


「そうなのよ。主人、たまに木村さんに何か渡しているのよね。でも中身教えてくれないの」

「ラブレター?」


 一人の奥さんの冗談に皆が一斉に笑う。


「あはは、でも変なのよ。主人、木村さんの事、いっつも『室長』って言うの。なんの室長? って感じよね」


 鈴木さんは笑いながらコンシェルジュデスクに向かった。




 スーパーで昼食を買って帰ってくると、木村さんが私を呼び止めた。デスクから出てこちらに来る。


「如月様から伺いました。その、行野様のお体の事を」


 目を伏せ、俯く。


「行野様の体調の事は存じ上げておりました。その上で怪我をされているのを見ておりましたのに、配慮が足りず申し訳ないことでございます」


 木村さんが頭を下げたので、私は慌てて首を横に振った。


「いやそんな、木村さんは何も悪くないじゃないですか。こちらこそご迷惑かけてすみません。もとはといえば私の」


 私のせい、と言いかけた時、駿君の怒り顔が脳裏に浮かんだので、私は適当に語尾を濁した。


「で、でもあの時はびっくりしました。木村さん、上品で優しいのに、すっごく強いんですね」


 私の言葉に、木村さんは不思議な笑みを浮かべた。


「上品で優しい、ですか」


 多分ここの住民の殆どが抱いているであろう木村さんの印象を言っただけなのに、彼はその言葉を繰り返して少し間を置いた。


「おそれ入ります。もしこの私がそう見えるのでしたら、それは社長のおかげですね」


 ここで言う社長、とは、木村さんが今勤めている会社の社長ではないだろう。彼は遠くを見るような目をして言葉を続けた。


「もうかれこれ三十年以上前のことになりますか。腕っぷし以外何の取り柄もない、チンピラ以下の不良だった私を見込んで取り上げて下さったのは、起業したばかりの、まだ学生だった社長でした」


 不良という言葉と木村さんが結びつかず、口を大きく開いた私を見て、彼は少し笑った。

 手入れの行き届いた手をぐっと握る。


「本来私は、本社の管理職なぞになれるような人間ではないのです。現に昔も今も、私以外の管理職以上は、全員いわゆるエリートと呼ばれる人ばかりです。それなのに社長は私を見込んでくださった。もしあの時社長に取り上げて頂けなかったら、私はとっくに生きていないか、逆に暴力でのし上がるような人間になり果てていたか、そのどちらかだったことでしょう。私にとって社長は、恩人という言葉では言い尽くせないような方なのです」


 穏やかな目の奥に、暗い火がゆらりと燃える。


「おそれ入りますが、これを如月様へ渡して頂けますか」


 手渡されたのは、鈴木さんが持っていた白い封筒だった。開封された跡がある。


「あの時、目先の欲に目がくらんでいた奴らはきっと知らないでしょう。奴らは、あの会社に多くの『狼』を生み出したのです」




 家に戻り、駿君に声を掛けたが返事がない。ノックをして中に入ると、物凄い集中力でPCに向かって何やら作業をしていた。とても「ご飯食べよう」なんて言えない。


「忙しいところごめん。先に食事食べちゃうね。あと」


 白い封筒をそっとデスクの上に置く。


「木村さんから。同じマンションの鈴木さんっていう人経由で渡されたみたい。これ渡された時、あの、少し、聞いた。木村さんの、昔の話」


 彼は封筒に目を向けた後、こちらを振り返った。


「じゃあね。ランチ冷蔵庫に入れておくから。私、食べ終わったら掃除するから少しうるさくするね。大事な電話するときは教えて」


 これ以上邪魔するわけにいかないと、後ずさりするように部屋を出ようとする。


「花菜」


 白い封筒を手にした駿君は、私の目を見て言った。


「もうすぐ、終わるから」


 終わる?

 今やっている作業が、ってこと?

 それとも別のこと?


 その問いを投げかける間もなく、駿君は後ろを向いてデスクに向かった。




 十六年ものの私の初恋も、駿君の復讐も、私達の関係も。

 軋むような音をたてて、ゆっくりと回りだす。

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