10.夜を共に過ごす

 私の症状が落ち着いたのを見ると、渡貫さんは処置室の隅に立っていた駿君を手招きした。


「多分これで落ち着くと思う。一応明日の朝位までは様子見たいんだけど、どうしようかな。うち入院できないからなあ。とりあえずしばらくはここで休んでいて。ごめん今日父がいないからこれで」


 足早に処置室を出て行く渡貫さんに、駿君は頭を下げた。


 待合室の方からざわざわと話し声が聞こえる。吐き気も収まり、気分が落ち着いてきたので周りの様子を窺う。

 今日は沢山の人がいるようだ。隣の診察室は立て続けに人が出入りしている気配がする。看護師らしい人達も、処置室と診察室を出たり入ったりしている。

 いつもの飄々とした雰囲気からは想像も出来なかった。医院の経営が厳しいようなことを言っていたけれど、渡貫さんは、この忙しい日々の合間を縫って、私のことを診てくれていたんだ。


「駿君」


 私は傍らに座っている駿君の方に手を差し出した。折角傷跡をきれいにした腕に、今は点滴の針が刺さっている。指先が冷たくて、痺れる。


「ごめんね」


 私の言葉に駿君は少しむっとしたような表情をした。


「花菜は何も悪くない。それよりどうだ、落ち着いたか」


 私の冷たい指先を、駿君のあたたかい手が包み込む。私はなんとか頷いた。

 ここへ来るまでのことは記憶が曖昧だ。玄関で倒れた後も吐血は止まらず、強烈な吐き気と寒気に襲われた。駿君は私を車まで抱きかかえて運び、ここまで連れて来てくれた。

 駿君の服も、車の中も血まみれになってしまった。


「少し休め。俺はずっと、ここにいるから」


 彼の言葉と手のぬくもりに甘えて、私は素直に目を閉じた。




 ぼそぼそという話し声で目が覚めた。いつの間にか医院の中のざわめきが消えている。

 しんと静まり返った中に、駿君と渡貫さんの会話だけが聞こえた。


「念のため一晩様子を見たいんだけど、ここじゃ寝心地悪いかなあ」

「うーん」


 どうやら今日は処置室で一晩過ごすらしい。なんとなく起きたことを知らせるタイミングを逸したので、そのまま目を閉じていた。


「じゃあ、何かあったら携帯ですぐに連絡してくれ。お前も少し寝ろよ。これから長丁場になるかもしれないんだから」


 椅子を動かす音がした。渡貫さんが部屋を出るところらしい。


「今、彼女に一番必要なのは、薬よりお前の存在そのものだ。そばにいてやれ。大事なかわいい奥さんのために。……悪いな、まだ素直に『おめでとう』が言えるほど、俺は人間が出来ていない」




 渡貫さんが出て行った後、私は目を開け、起き上がった。


「どうだ」


 駿君の言葉に微笑んでみる。多分、ちゃんと微笑めたと思う。


「念のため今日は一晩ここにいろって。ここ、入院施設がないから、こんなベッドで寝ることになるけど」


 ベッドの事を何か言うことなんかできない。入院施設のある病院に行かれない私のせいで、駿君と渡貫さんに無理をさせてしまった。

 これから私は、一体どの位彼らに迷惑をかけ続けるのだろう。


「私、これから回復することはあるのかな」


 駿君が俯いた。


「明日には多分動けるようになる。でも、回復することは……ない、って」


 やはり、そうか。

 なんとなくそんな気はしていた。


「どうだ、今、何かしたいことあるか? 手伝うぞ」


 話を逸らしたそうだった駿君の調子に合わせる。


「お腹空いたぁ」

「まじか!?」


 駿君は呆れたような嬉しそうな不思議な顔をして、渡貫さんに電話した。


「――血吐いたくせにふざけるな、食えるわけねえだろ、一晩ぐらい我慢しろって」

「あのさ、多分渡貫さん、もう少し優しい言い方してくれていたと思うんだよね」

「内容は一緒だ」

「そういう問題?」


 ふくれる私を見て、駿君は少し笑って私の額をつついた。


「今日はゆっくり寝ろ。寝心地悪いかもしれないけど。そしてもし明日、体調が良かったら一緒に役所へ行こう」


 役所、と聞いて、反射的に身構える。

 小さい頃から「役所は怖い所だ」と聞かされて育っているので、それが間違いだと理屈では分かっていても、どうしても怯んでしまう。


「え、や、役所なんか、何しに行くの」


 怯える私の姿を見て、駿君は肩を落として大きな溜息をついた。


「だから。なんで役所って言うだけでそういう顔すんだよ。本当にあのお母さん、ろくなもんじゃねえな」


 しばらく肩を落としていたが、やがて顔を上げ、私を見て少し困ったような表情をした。


「あのさ、普通、分かると思うんだよ、今のこの俺らの状態を見れば。俺が何しに役所へ行きたいか。『役所へ行こう』って言って、まさか花菜にそんな顔されるとは思わなかった」


 柔らかく微笑む。

 耳元に唇を寄せ、囁く。


「入籍しに行こうって、言ってんだよ」

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