9.観覧車での誓い

 駿君は穏やかに微笑んで軽く頷き、頬を赤らめ下を向いた。


「やっぱ照れるな、これ」


 額に汗を浮かべ、しばらく絵に描いたようにもじもじしていた駿君は、軽く咳ばらいをした後、懐に手を入れた。


「これ。趣味に合うか分かんねえけど」


 ぽんと手渡されたのは、黒い小さな箱だ。

 包み紙と紙箱を開けると、今度は布張りの箱が出て来た。両側から開けるようになっている。落とさないように注意しながら、その箱を開ける。


 かぱ、と音をさせて開いた箱の中で、それは薄暗い観覧車の中の光を集めて、強烈な輝きを放っていた。


「これって……」


 私は驚いて目を見開き、駿君の方を見た。


 箱の中に入っていたのは、指輪だった。

 いかにも私が好きそうな可愛さと、いかにも駿君が好きそうなシンプルで上品な感じがうまく溶け合ったデザイン。

 これ見よがしではない細く繊細なつくりだが、私のような人間でも一目で上質なものと分かる。それこそ、このようなものを身につけることはおろか近寄ることすらも思いつかなかったような。

 この、指輪は。


「どう? サイズ合う?」


 私の深い感慨を完全に置いてけぼりにして、駿君は実用面の不安を淡々としたいつもの口調で言った。我に返った私はあたふたと左手薬指に嵌める。少しきつい気もしたが、それはぴたりと私の指に収まった。


「ありがとう……」


 うわごとのように呟く私を見て、駿君が柔らかく微笑む。

 いつ手に入れてくれたのだろう。これだけ私達の好みにぴったりな指輪、きっと丁寧に選んでくれたのだと思う。

 だから、ずっと前から考えてくれていたんだ。

 今日の日の事を。


 左手の薬指に嵌められた指輪に触れる。まさか自分のこの指に、指輪が嵌められる日が来ようとは。

 しかも、駿君から贈られた。


 眼下に広がる街の明かりが涙で滲む。

 駿君は私をそっと抱き寄せた。彫りの深い端整な顔、深い海の底のような藍色の瞳が間近に迫る。思わず俯きそうになって、慌てて顔を上げる。


 そして見つめる。彼を。

 十六年間想い続けた、今、私の伴侶となる、彼を。


 暗闇と街の明かりに包まれた観覧車。私達はその中で永遠を誓い、そして互いの唇を重ねた。




 観覧車の十五分間はあっという間だった。私達を降ろすためにドアを開けてくれたお兄さんは、愛想笑いを浮かべながらも、なんとも言えない微妙な表情で私達を見た。

 これは多分、というか絶対、私達のさっきの現場を目撃したんだ。


 うおぉ、そう考えると恥ずかしい。でも矢木さんの言うようにここが有名な場所ならば、きっとこのお兄さん、今までにも似たような場面に何度も出くわしているんだろう。




 もっと遊びたかったのだが、私達は帰ることにした。私の気分が急に優れなくなってしまったからだ。


「ごめんね、折角の日なのに」


 車の座席を倒して横になりながら、私は情けない気分でいっぱいになった。


「いいから。それよりどんな感じなんだ」

「なんか、気持ち悪いの。食あたりかなあ」

「それはねえから。俺なんともないし」

「そう……。あぁ、なんだろうこれ……」


 込み上げる吐き気に口を押さえる。


「渡貫の所へ行くか?」

「ううん、そんなにひどくはない。家で休んで様子見る」


 色々診察されるより、今は一刻も早く帰って休みたい。それに今、なんとなく渡貫さんには会いたくない。

 勿論彼が嫌なわけじゃない。ただなんとなく。

 多分理由は、この指輪の存在だ。




 家に近づくにつれて、私の体調はどんどん悪化していった。

 物凄く気持ち悪い。吐き気がするのだが、確かに変なものを食べた時の吐き気とは全然違う。貧血の時の気持ち悪さとも違う。何かがごぼごぼとこみ上げてくる気持ち悪さ。


 駐車場に着く頃には、駿君に支えられてやっと歩くような状態だった。エレベーターに乗っている時間がやけに長く感じられる。

 ああ、そうだ、鈴木さんにお鍋返さないといけないのに……。


 家に着き、ドアを開ける。靴を脱ぐために駿君の肩から手を離し、靴を揃えようとかがみ込んだ。

 その時、急に突き上げるような吐き気がこみ上げて来て、私はその場に倒れ込んだ。何度か咳込み、たまらなくなって喉の奥に詰まったものを吐き出す。


 白い薔薇柄のワンピースを、吐き出された真っ赤な血が染めてゆく。


 駿君が何かを叫びながら私を揺すった。そしてばたばたと走っている気配がする。

 手足が急激に冷えていく。視界がどんどん狭く、暗くなる。


 寒い。

 暗い。

 頭の奥が痺れる。私は言葉にならない声で駿君を何度も呼んだ。


 お願い、そばにいて。私の手を、このまま離さないで。

 寒いの。だから一緒にいて。

 ずっと。


 お願い。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る