11.儚い幸福と祝福
その晩は殆ど眠れなかった。
体調は落ち着いていた。少しむかむかしたし、体も痺れていたが、我慢は出来るくらいだ。ベッドの寝心地も、駿君や渡貫さんが言う程悪いとは思わなかった。
だが、寝られるわけがない。
暗い処置室の中で、私と駿君は無言のまま一晩を過ごした。
お互い、相手に少しでも休んで欲しいと思っているので、話しかけることはない。
駿君は渡貫さんから借りたらしい本を読んだり、スマートフォンをいじったりしていた。たまに椅子に座ったまま目を閉じることもあったが、寝てはいないようだった。
目を閉じ、今日起きたことを思い出す。
十六年ものの片思いが実ったかと思うと、猛スピードで事態が展開した。私達は一緒にいた時間は長かったが、いわゆる「おつきあい」というものをほぼ経験することなく、明日入籍する。
私は駿君の「お嫁さん」になる。
それは嬉しい。勿論嬉しい。
だが、私の体が回復することは、ない。
それに売血で命を落とした妻がいた事実は、彼の今後の恋愛や結婚の障害にならないだろうか。
駿君が他のひとと、なんて、考えたくもないが、彼が「狼」であることの問題は、彼が思う程女性は気にしないと思う。私がそうであるように。
だが、売血者への世間の目は冷たい。吸血種への目よりも冷たい。
私は駿君が好きだ。大好きだ。けれども彼の人生の
でも、そんな言葉を発することを、彼は決して許さないだろう。
翌朝早く、渡貫さんが丁寧に診察してくれ、帰っていいと言われた。
血まみれになった助手席のシートに、駿君は渡貫さんに譲ってもらったらしい使い捨てのシーツを何重にも掛けて、私に座るように促した。
「まず俺だけ役所行って、一度家に戻る。そのあと体が大丈夫そうなら、タクシーで一緒に役所へ行こう」
淡々とそう言って車をスタートさせたが、このシート、きれいになるんだろうか。
「ねえ、車、ちゃんときれいになるのかな。ごめんねこんなに」
「謝られることをされた覚えはねえし。それより花菜、印鑑持っているか」
私の言葉を遮り、駿君はそんなことを言った。印鑑なんか、人生の中で持ったことない。だから首を横に振る。
「じゃあどこかで買わなきゃな。その辺にある安いのでいいや。どうせ『行野』の印鑑は、今日しか使わねんだし」
生まれて初めて足を踏み入れた役所は、びっくりするくらいそっけない場所で、恐ろしくもなんともなかった。
そして人生の一大イベントであるはずの入籍は、びっくりするくらいあっけなく終わった。
「婚姻届」と書かれた、面白みのかけらもない書類を貰って一度家に帰る。名前や住所を記入し、印鑑を押す。自分で漢字で記入できたのが少し嬉しい。これも駿君のおかげだ。
その後証人欄の記入をしてもらいに、駿君は木村さんと矢木さんの所へ行った。そして私の戸籍謄本と一緒に役所へ提出する。
「はい。……うん、うん、はい、これで大丈夫です。おめでとうございます」
役所のお姉さんは、何やら色々確認した後、流れ作業感満点の口調でそう言って、一応感満点の雰囲気で微笑んでみせた。
え、これでおしまい?
「しゅしゅ駿君、おしまい? これで? なんかもっともったいぶった面倒くさい手続きとか、三日くらいかけてじっくりやったりしないの?」
「やんねえよ。まあ普通は住所変更だの名義変更だの色々やるんだろうけど、花菜そういうの関係ないからこれでおしまいだな」
「えー」
「えーってなんだよ。楽な方がいいじゃねえか」
それはそうなのだが、面倒な方が気分が盛り上がる。そんな私をよそに、駿君は役所の前でタクシーを止めた。
後部座席に並んで座り、駿君が私の手をそっと握る。
「そっけなくてあっけなかったかも知んないけど、分かっている? もう、今から花菜は、『如月花菜』なんだからな」
家に帰って一休みしたら、むくむくと空腹感が湧き上がってきた。寝ろと言う駿君を強引に説き伏せて、いつものカフェへと向かう。
店に入るなり、店員一同がにこやかに私達を見た。もう、私達の事が全員に知れ渡っているのは一目瞭然だ。
言いふらした犯人は、今ここにはいないらしい。
「俺いつもの」
席に着くなり、駿君はそれこそいつもの調子で店員に言った。
私はメニューを見るが決められない。いつもみたいに甘くて脂っこいものはさすがに食べる気がしないし、かといって駿君と同じサラダとパンでは少なすぎる。結局、駿君におまかせパターンになってしまった。
この店はいつも賑わっている。今日も満席だ。にしても今日は食事の出てくるのが遅い。
何しているのかなあ、と思ってキッチンの方を見ていると、店員何人かが、何かを手に拍手をしながら出て来て、私達のテーブルにやって来た。
「これは当店からのささやかなお祝いです」
店長が小声でそう囁きながら、小ぶりのホールのケーキをテーブルに置いてくれた。
「花菜さんのために油と砂糖ひかえめになっているけど、おいしいっすよぅ多分。今日は俺が作ってみました」
店長の背後で、頭に餡入り菓子パンの正義の味方キャラをくっつけた矢木さん――この頭飾り、自分の車の中から取って来たんだろう――が、そう言ってふんぞり返った。
「はいじゃあいっせぇの!」
矢木さんの合図で、店員が一斉に声を上げる。
「ご結婚おめでとうございます!」
にこやかな笑顔と、拍手。
店内のお客さん達も、つられてこちらを見ながら拍手をしてくれる。
お客さんの誰かが、「わぁ、いいなあこういうの」と呟いていた。
いいの、だろうか。
私が、こんな形で祝福を受けて。
こんな、私が。
「どうした花菜。俯くな。こういう時は、上を向くんだ」
駿君が囁き、私の肩に触れる。その言葉に私は上を向いた。
二人で立ち上がり、頭を下げる。
「ありがとうございます」
顔をもう一度上げ、微笑む。
その時、ふっと眩暈がしてよろけたのを、駿君は抱き寄せるふりをして支えてくれた。
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