3.幸せは、掴みながら零れ落ちる
1.どこか遠い所へ
「行野さん、今日は二度目だね。もう、このままうちに永久就職すればいいのに」
あずき色のジャージを穿いた渡貫さんは、そう言ってにこやかに微笑み、私達を診察室に案内した。
「永久就職ってなんですか」
私の言葉に、駿君は鼻で笑いながら話に入ってきた。
「『結婚する』ことを指す大昔の言葉だよ。ジジイの冗談にいちいちつきあうことはない」
「二歳しか違わないのにジジイとはなんだこのクソガキ」
「うるせえ、ジジイのくせにいつまでも中学ん時のジャージ穿いているんじゃねえ」
これ、中学の時のジャージだったんだ。じゃあまさか、駿君もこれと同じジャージを……。
「俺の年のジャージは違うデザインだった」
私の考えを読んだのか、駿君は即座に言った。
「ひどいよねえ。このジャージ、高校までずっと一緒だったんだよ。六年間ずっとこの色」
そう言って渡貫さんは駿君に視線を移し、ふっと口を閉じた。
軽口は叩いても、渡貫さんの目は真剣だ。私の傷口を丁寧に調べ、難しい顔をする。
「見ての通り、傷自体はたいしたものじゃない。放っておいても二、三日で治る。ただ」
私と駿君の目を交互に見つめる。
「場合によっては熱が出たり、体調を崩したりするかもしれない。この間の風邪が変に長引いたのも、吸血種とひと悶着した時に、ちょっとした傷をつけられていたからかもしれない。本当は、吸血もされていないのにそんな症状が出るなんて、あっちゃいけないんだ。吸血種に対する抵抗力は個人差が凄く大きい。行野さんは本来、売血なんかできるような体じゃないんだよ」
そこで駿君の方へ向き直った。
「さて、次は駿か。なんだ、随分派手に噛まれたな」
首に開いた四つの傷を見て渡貫さんは顔をしかめた。
「お前、一度噛まれるとなかなか血が止まらないたちだからな。せっかく首の傷痕全部きれいにしたのに」
渡貫さんはそこまで言って、駿君の鋭い視線を受け、言葉を切った。
駿君も、かつて首筋の治療をしたのだろうか。
自分の首筋に触れてみる。今では、傷痕は言わなければ分からない位目立たなくなっている。私のあの傷ですらこうだ。
駿君の首筋。この間つけられた傷痕はまだ残っているが、それ以外は滑らかで、きれいな首筋だけれど。
駿君は、矢木さんや木村さん達と出会う前、どうやって吸血種と戦っていたのだろう。
「えーと、行野さん、ちょっと駿と話がしたいんだ。ごめん、外に出ていてもらえるかな」
駿君の傷のことを考えていたら、渡貫さんが私の方を向き、両手を合わせてそう言った。
優しいながらも有無を言わさぬ口調。
私は診察室を出た。
診察室の向こうから、ぼそぼそと二人の声が聞こえてくる。私はなるべく会話が聞こえないよう、待合室の隅でじっと俯いていた。
俯きながら、今日遭った出来事を思い出す。
母親は、可哀想なのかもしれないが、駿君が大丈夫と言ったからには多分大丈夫なのだろう。
もし運び込まれた病院がどこなのか分かったら、一度くらいは様子を見に行ってみよう。でもあの人の所へは二度と戻らない。
私を『花嫁』として買った吸血種。あの小部屋の外で消されたのは多分、あいつの嫁だろう。
話しぶりからすると部下だか手下だかがいるみたいだ。そいつ達が私達の事を怪しまなければいいのだが。
そして、駿君。普段冷静で淡々とした雰囲気なのに、どうして護身の道具を身につけないまま飛び出してしまったのだろう。急いで来てくれたのは分かるが、着替えはともかくアクセサリーくらいは持ってこられただろうに。
本当、今日の駿君は、なんだか、「らしく」ない。
そして、私。
私は。
もう、あんまり長くないのかなぁ。
診察室から出て来た駿君は、首筋に大きなガーゼを貼り、ぶかぶかのシャツを着ていた。ここに来るとき着ていたシャツは血で汚れていたから、渡貫さんに借りたのだろう。
「これ、でかいな」
「ん、ぴったりのが着たいか。ならあるぞ、このジャージの上着」
駿君が露骨に嫌そうな顔をしたのを見て、渡貫さんは勝ち誇ったように笑った。
「しかし今回、連れ込まれたのがあのビルでまだ良かったな。他の建物じゃ勝手がわからないもんな」
渡貫さんの言葉に駿君が頷く。あのビルのこと、渡貫さんも知っているんだ。
そういえば、なんであの部屋まで簡単に辿りつけたんだろう。
「ねえ、あのビル、何度か行った事でもあるの? 暗い所を随分すたすたと歩いていたけれど」
「ああ、行った事っつーか、あのビル、俺のだし」
彼は目を見開く私を見て少し首を傾げた後、淡々と言葉を続けた。
「あの辺はもともと吸血種が多いだろ。だから吸血種が居つきやすいビルを建てた。機会が来たら、一気に消すために」
この人は、吸血種を消すためにビルまで建ててしまうのか。
渡貫さんが言っていた言葉を思い出す。
――儲けてもその殆どを吸血種退治につぎ込んでいたし、あの時は、それこそ何かに取り憑かれているみたいだった。
「わざと入居条件を緩くしたりして、あの町の中でも選りすぐりのろくでもない奴らだけが集まるようにした。名前から正体がばれるかもしれないと思ったけど、今のところ問題ないし」
そこで渡貫さんが溜息をついた。
「危ない橋渡るよなあ。俺の名義貸すって言ったのにさ、治療以外で頼りたくないんだと。本当、見ているこっちがはらはらするよ」
帰りは電車を使った。たいした時間乗っているわけではないが、二人で並んで電車に乗るのって初めてだ。
「ねえ」
並んで電車に乗ると、揺れるたびに二人の肩が触れ合う。私は言うかどうか考えたが、思い切って言ってみた。
「わがまま、言いたいんだけれど」
「何?」
柔らかな、低い声。深い海の底のような藍色の瞳に私が映る。
「駿君のお仕事の都合がつけば、だけど、私達の誕生日にさ、二人でどこか出かけたいな。どこでもいいの。できれば一度太陽を見てみたいけど、さすがにそれは無理かなあ」
誕生日はやっぱり何か特別なことがしたい。私のおねだりを聞いて、駿君は少し考えるように上を向いた。
「陽の当たる場所か。うん、いいな。ただ役所から観光許可が下りるまで時間がかかるし、そもそも許可が下りるか分かんねえ。だから近場で」
微笑む。わずかに細められた目が、私を掴んで離さない。
どうしてだろう。
少し前まで、あんなに荒んだ雰囲気だったのに。
今日だって、あんなことがあったのに。
どうしてそんなに、柔らかな微笑みが浮かべられるのだろう。
どうしよう。
彼の微笑みがあまりにあたたかくて、あたたかすぎて、何故かとても、悲しくなるほど、切ない。
私も微笑む。電車が揺れ、肩が触れる。もう、このままどこまでも電車に乗って、どこか遠い所へ行ってしまいたい。
遠い遠い、私の知らない、陽の当たる、どこかへ。
家に戻った。ふと気がつくと物凄くお腹がすいている。そういえば今日、まだ何も食べていない。時計を見るともう午後四時だ。
「ねえ、ご飯食べに行こうか」
駿君はリビングでぼうっとしたように立ち尽くしていたが、私の言葉で食事のことを思い出したのか、ワンテンポ遅れて頷いた。
そして立ち止まったまま何かを考え込む。
どうしたんだろう。本当に、今日はなんだか変だ。
私を助けに来る前に、何かあったのだろうか。
「駿君、どうしたの? もしかして具合悪いの? 何か今日、変だよ」
心配になって彼の顔を覗き込む。その私の顔から、彼は視線を逸らした。
「なんでもない。ただ、怖いんだ」
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