11.脱出と彼の変化

「花菜、大丈夫か!」


 私が声をかける間もなくそう叫び、私の首筋を見る。そしてほっとしたような表情をして下を向き、私の手首の傷を見て目を見開いた。


「これ……」

「ああ、これ、さっきあいつに掴みかかった時に爪立てられて。それより」

「行こう。急げ」


 私の言葉を遮り、手を取って速足で出口に向かう。

 途中、小さな呻き声が聞こえた。さっきも聞こえた声だ。

 駿君がスマートフォンを灯りにしてかざすと、呻き声の主の顔が亡霊のように浮かび上がった。


「おかあさん!」


 通路の隅にうずくまって呻いていたのは、母親だった。

 ばさばさに振り乱した髪、紫色に変色した顔。全身が小刻みに震えている。視線の定まらない瞳が曖昧に私達の方へ向く。

 首筋からは、二本の血の筋が流れていた。


 一体、何があったのだろう。欠かさずつけていた香水の臭いがしないから、何日も家に帰っていないのかもしれない。

 駿君は小さく舌打ちをして母親を抱き上げた。


「花菜、これ持って前を照らしてくれ。ちゃんとあとついて来いよ、出口までごちゃごちゃしているから」


 私は駿君からスマートフォンを受け取り、前を照らした。彼はまるで停電の時の自宅を歩くかのように迷いなく歩き進め、エレベーターに乗ってあっさりと外に出た。

 ビルの裏手に回り込み、母親を降ろす。


「おい、あんた」


 呻き声を上げて震える母親を見下ろして話しかける。


「何をやらかしたのか知りませんが、多分助かります。今から救急車呼びますから、大人しく乗って下さい。ちゃんと申請すれば医療費請求されませんから、下手に病院から逃げるようなマネはしないで下さい。そして役所に保護してもらうこと。そしてもう、二度とそのツラを見せないで下さい」


 一気にそれだけ言うと、母親を路地裏に置いたまま私の手を取り、救急の電話をしながら速足で歩き出した。


 先程のビルから少し離れたところに車が停まっている。


「え、これに乗るの」


 てっきり駿君の車に乗るのかと思っていたが、そこにあったのは白い見慣れない車だった。


「そりゃそうだよ、如月さんの車みたいなのでこの辺うろうろしたら目立ってしょうがないもん。さ、後ろ乗って。チャイルドシートつけっぱなしだから狭いかもしれないけど」


 運転席から矢木さんが顔を出してそう言った。




 希ちゃんが大好きな、餡入り菓子パンの正義の味方キャラがあっちこっちで揺れている後部座席に乗りながら、二人から話を聞いた。


「今、渡貫に連絡した。このまま奴の所へ行く」

「大丈夫? 結構吸われたでしょ」

「え、ああ俺はいいんだよ別に」


 軽く流されたが、売血と違い思い切り牙を突き立てられた首筋からは、まだ血が流れている。


「それより、花菜のその傷」


 そう言ってすっかり忘れていた手首のひっかき傷を指差した。


「花菜の体は、血を吸われたかどうかだけじゃなく、傷つけられたかどうかも問題らしい。詳しいことは渡貫から聞いてくれ。とりあえず早く診せに行かないと」


 たかがひっかき傷でそんなに問題になるのだろうか。いや、そんなことより。


「駿君、ありがとう。ごめんね、私」

「礼を言われることをした覚えはねえし、詫びを言われることをされた覚えもねえし」


 助手席から身を乗り出し、私の方を向いて額をつつく。

 そのまま私の頬を撫でる。

 その手のあたたかい感触に、撫でられた頬が火照る。


「矢木、ありがとう。いつも凄いな、おまえのその情報網」


 駿君の言葉に、矢木さんは運転しながらイヤホンみたいなものを外し、ふんぞり返った。


「まあね。今回は最初に貰った木村さんの情報が細かかったから。あの人、マンションの人の出入り、本当に良く見ているな」

「当たり前だ。不審な動きをしている奴は一発でチェックされる」


 二人から話を聞くと、木村さんはあの木山と名乗っていた女をずっと注意していたらしい。そこから彼女の乗っていた車をチェックし、その車の行き先を、矢木さんの沢山いる協力者の情報を基に追っていたらしい。


「俺ら『狼』ってさ、一匹狼じゃ、たいしたこと出来ないんだよ。だから何人かで役割を決めて動く。そしてその仲間に何かあれば全力で助け合う。じゃないと生き延びられないからね。仲間を持たないまま行動しようとしても、大抵返り討ちに遭う。ま、ここにこんな優秀な仲間に囲まれているっつーのに、返り討ちに遭いかけた人がいますけれど」


 車は渡貫さんの医院の前で停まった。


「如月さん、一緒に診てもらうといいよ。結構酷いよ、その傷」


 矢木さんが顔をしかめ、駿君の傷口を指差す。


「あんたらしくない。護身用の銀もハーブも身につけずに吸血種の巣窟に飛び込んだら、返り討ちに遭うに決まっているだろ。焦っていた気持ちは分かるけど、あんなに動揺して冷静さに欠いていたら」

「もう帰っていい。もうすぐ店が混む時間だろ。今日は助かった、ありがとう」


 矢木さんの言葉を遮って駿君は言った。矢木さんはそれを聞いて、慌ててお店に戻って行った。




「駿君」


 首筋の傷に触れようとしたところを彼に押さえられた。


「助けてもらったな。銃なんか撃たせて。悪かった」


 駿君の言葉に私は首を何度も横に振った。

 そんな、お詫びとお礼をしないといけないのは私の方だ。


「ほら、早く診てもらおう」


 駿君はそう言っていつもの様に私の肩を叩いた。

 だが、肩を叩いた手は慌てたように引っ込められ、彼はなぜか、私から視線を外した。

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