3.甦らされた過去
「お父さん」を紹介されたところで、何の感情もわかなかった。私を「花嫁」にしようとしてまで一緒にいた奴はどうしたんだ、とは少し思ったけれど。
「どうしてここの場所が分かったの」
「なんだ、俺は無視かよ」
「すいませんねえ失礼な子で」
母親は男に媚びるような上目遣いを見せた後、私を見て嗤った。
「お前の知り合いなんかあの子しかいねえだろ。貰った手紙大事に取ってあってよぉ」
そう言って、駿君から貰った年賀状をひらひらさせた。
それを見た途端、鋭い怒りが噴き上がる。
掴みかかるようにして年賀状をひったくり、母親を睨みつけた。母親は何かを言おうとしていたが、「お父さん」をちらりと見て口を閉じた。
私の持ち物を漁ったんだ。他の物はどうでもいいが、これは私の大事な宝物だ。あの時、動転して持って来なかったことに対する後悔と、こんなことに使われて、宝物を穢されたような不快感で胸が苦しくなる。
ロビーを通る他の住民の視線を感じる。小さな男の子が大声で叫んだ。
「ここ、なんかくさーい」
一緒にいた母親らしき人が、「しっ」と言いながら私の母親を見た。
「如月君はどうした。本当に出かけているのかよ」
ソファに座り直した母親に、私は曖昧に頷いた。
「なんだよ、じゃあ無駄足だったじゃないか。その『如月君』とかいうのがあれだろ、この子を騙して囲って弄んでいる、金持ちの息子だっていう」
騙して囲って弄んでいる、って、なんだそれは。立ち去ろうとした男を見て、母親は慌てて立ち上がり、縋りつこうとした。だが男はその手をするりと
「おっと、言ったろ。その坊主から金を引き出せなきゃ、君とはつきあえないよ」
ああ、またか。
なんとなく見えてきた。
母親は男が好きになった。だけどつきあってもらえない。そこで「お金を引き出せるあてがあるから」とかなんとか言って、男をここに連れて来たのだろう。
駿君が「私を騙した」からと、たかるか
似たようなことは、何度もあったのに。この母親は、なんで気がつかないのだろう。
自分が男に利用されているだけだ、って。
木村さんが私の名前を呼んだ。振り返ると、何かを訴えたそうにこちらに向かっている。
その様子を見て男が木村さんを睨み付けた。
「なんだお前。もう用はないんだから引っ込んでろ」
そう言って木村さんに向かって腕を振り上げる。私は木村さんを庇おうと、反射的に男の手首を掴んだ。
「ぎゃっ」
私が手首を掴んだとたん、男は叫び声を上げて私の手を振りほどき、大げさに手首を庇った。
次の瞬間、男は私の頬を思い切り張り飛ばした。
「何しやがる、てめえ!」
張り飛ばされた瞬間、目の前にぱっと火花が散った。体が宙を舞い、大理石の床に思い切り叩きつけられる。
ごん、という小さな音を立てて頭を打った。痛みは、少し遅れてやって来た。
こいつ、まさか。
「前々からどうしようもない人だとは思っていましたが、ここまでとは」
その時、スーツ姿の駿君がエントランスから入って来た。
「その男は吸血種です。今、手首に銀が触れて火傷を負ったでしょう。騙されていたんですよ。相変わらず男を見る目がないですね」
彼は私を庇うように立ち、母親を憎悪に燃えた目で睨み付けた。
駿君は木村さんに目配せをした。木村さんは駆け寄って私を抱きかかえ、ソファに横たえる。
「ああ如月君、お久しぶり。まあ随分と立派に成長してぇ」
母親は駿君の姿を上から下まで舐め回すように見た後、女の顔をして微笑んだ。
「この人が吸血種? 冗談を」
「俺は吸血種に関する冗談は言いません」
傍らで手首を押さえる男を睨む。エレベーターで降りて来た住民が、ロビーの様子を見て足早に外へと逃げていった。
「てめえの目的は何だ。なんで人間のふりをして花菜のお母さんに近づいた」
「なんだよ、言いがかりだ。俺はにんげ」
男が全て言い終わらないうちに、駿君は左手で男の額を小突いた。男が叫ぶ。
中指に嵌められた指輪が触れた眉間は、真っ赤に火傷を負っていた。
「成程な」
男は眉間を押さえ、顔を歪めた。
「俺もついてねえや。その仕草、額の打ち方。お前、『狼』だろう」
駿君と男のやり取りを見て、母親はその場にへたり込んだ。
当然だ。自分は吸血種とつきあおうとした。たとえ騙されたせいだとしても、人間としてこれ以上の汚らわしいことはない。この事は一生の汚点として心に残り続けるだろう。
「狼って何だ。俺はただむかつく奴の額を叩いただけだ」
「しらばっくれんのか。そうか」
男は少し考えるように上を向き、やがて駿君の方を見て薄く嗤った。
「ま、お前が『狼』になった理由は見当がつくよ。この女からお前の話を聞いたからな。お前、いいとこのボンボンだったんだろ。だけど強盗に親を殺されて」
男が過去の話を始めた途端、駿君は呪いがかかったようにその場を動けなくなった。
顔色がみるみるうちに白くなっていく。
「でも遺産、残ってたんだな、この様子だと。そうだよな。強盗やるレベルの奴らは、目の前の現金やカード位しか目にいかないもんな。あと、こ・れ」
駿君の目の前で、男は「こ・れ」と言いながら自分の首筋を叩いた。
「お前が家に帰った時、強盗は逃げた後だったんだってな。お前、命拾いしたな。その強盗、相当腹減ってたみたいだもんな。なんかさ、あれだろ、親は両方とも、血が一滴も残ってない程、カラッカラになるまで吸い尽くされてたって……」
駿君は顔色を失い、両手が震えだした。動けなくなった駿君を見て、男は額をこすりながら少しずつ移動する。
そして母親の腕を掴んで立ち上がらせ、羽交い絞めにした。
「や、何すんだよっ」
「何すんだって、お前、俺とこうやってくっつきたかったんじゃねえのかよ。この役立たずが」
私はソファから立ち上がった。だが立ち眩みで目の前が暗くなる。その間に男は母親を引きずって後ずさりした。
「俺の目的? いや、この
逃げ出そうと暴れる母親を締め上げる。私は床に打った後頭部を押さえて男に近づいた。
このまま逃がしたら、こいつ、あとで母親に何をするか分かったものじゃない。
「なのに全部失敗だ。おっと、俺を撃つなよ。ババアに当たるぞ。ま、ここで銃は使えねえか」
男は出口まで歩を進めた。ドアが開く。
駿君の方を見ると、彼は固まったまま声にならない何かを呟いていた。
「如月様っ!」
その時、デスクに戻っていた木村さんが鋭い叫び声を上げた。同時に棒のようなものを駿君に向かって投げつける。
「これは『救助』です!」
その声に、駿君は我に返ったように目を見開いた。そして投げられたもの――木の杭だ――を掴むや、猛然と男に向かって駆け出した。
「な、お前」
「この野郎……!」
駿君は男に向かって全力で体当たりをした。不意を衝かれた男は勢い余って母親と一緒に雨に濡れた石の床の上に倒れ込む。母親は這うようにして男のもとから逃げ出した。
駿君は倒れた男の上に馬乗りになり、獣のような叫び声を上げながら、両腕で思い切り杭を振り下ろした。
杭で心臓を貫かれた男は、その場で灰になった。
私は逃げる母親を無視し、外に出た。ドアが開いた途端、ざあっという雨の音と匂いが飛び込んでくる。
駿君は、両手に杭を握ったまま座り込んで雨に打たれ、男の灰が雨に流されていくのをぼんやりと眺めていた。
「駿君」
私は駿君の側にかがんだ。私が来たのを見て、駿君は深い藍色の瞳を私の方に向けた。
私はその場で一緒に座り、雨に打たれるに任せていた。
お礼も、お詫びも、何も言うことができなかった。
だって駿君は今、雨に紛れて涙を流しているから。
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