7.売血交渉と銃声

 私の事を大切と言ってくれた、私が世界でただ一人好きな人の優しい心を土足で踏みにじるような真似をして、私は彼の家を後にした。


 このあたりは道幅が広く、高い建物が多い割にはゆったりとした雰囲気だ。行きかう人達の身なりもいい。

 これからどうしたらいいのか見当もつかないまま、私はとりあえずこのあたりを流して客が声をかけるのを待った。


 「昼」に食事をしたカフェの前を通る。相変わらず賑やかだ。中にいるお客さん達も幸せそう。

 店を通り過ぎる時、中から、あの親しげ過ぎる店員が私を見ているのが、なんとなく分かった。




 どのくらいの時間流していただろうか。人間の白い目が突き刺さるばかりで、なかなか吸血種に声を掛けられない。じわじわと押し寄せる寒気と飢餓感に焦っていると、やがて私の背後で二人の男が話しているのが聞こえた。


「やめておけよ、この辺結構出るらしいぜ」

「でも俺、すげえ腹減っているんだよ。ごめん、ちょっと声かけて来るから」


 青いシャツを着た男が私の肩を叩いた。


「これ売っている?」


 そう言って自分の首筋を叩く。

 私は「昼」の出来事があったせいもあり、少し警戒して曖昧に頷いてみたが、男はそれを見ると、身振りで金額のサインをした。それが適正な金額だったので、私は首を縦に振った。

 相場をきちんと把握している。男は、人間じゃない、吸血種だ。私は彼に手を引かれて路地裏に入っていった。


 私の手を引く男の手は、氷のように冷たい。

 その冷たさが、さっきの駿君の手のぬくもりを奪い去っていくようで、何故だか言い知れぬ寂しさに襲われた。




 ビルの灯りやイルミネーションが輝く表通りとは違い、路地裏は暗く、足元がよく見えない。靴底から、なにか嫌なものを踏んだような感触が伝わってくる。

 吸血種は人間より暗闇に強い目を持っているので、私の手を引く男は、連れの男と一緒に、表通りを歩くのと同じ速度で歩き進めた。


 突然、ビルの隙間から年配の男性が飛び出してきた。その人は私の方を見て何かを訴えるような目つきをした後、そのままどさりと私の目の前に倒れ込んだ。

 紫色に変色した顔、首筋から流れる赤い血の糸。

 男性の身なりの良さからして、おそらく強盗に襲われたのだろう。路地裏ではよくある光景だ。可哀想だが、そのまま通り過ぎようとする。

 連れの男は、年配の男性が飛び出してきたビルの隙間の細い路地を覗き込んだ。

 その途端、声にならない叫びを上げて後ずさった。その様子につられて私や手を引く男も路地を覗き込む。

 

 通りの反対側から、誰かが全速力でこちらに向かってきているのが見えた。


 一人の若い男が物凄い速度でこちらに向かってくる。人間の脚の速さじゃない。みるみるうちにその姿が顕わになる。

 ぬかるみを走るばちゃばちゃという音、目を見開き、恐怖に歪んだ顔。そして私達に向かって叫ぶ、声。


「『狼』だっ……」


 彼は全てを叫び終わる前に、どん、という鈍い音とともに、小さな音をたてて灰に変わった。

 灰は、私の靴の先に少しだけ降りかかった。


「うわぁっ!」


 連れの男は、もと来た道を転がるように走り去っていった。

 私と一緒の男は逃げなかった。私の手を掴んだまま、じっとビルの隙間を睨んでいる。そしてそこから一歩も動かない。

 彼の脚を見ると小刻みに震えていた。逃げないのではなく、脚がすくんで動けなくなっていたのだ。


 私はもう一度路地を覗き込んだ。

 向こうから、速足でこちらに向かってくる人影がある。

 影が歩くたびに、かちゃかちゃと小さな音を立てる。影は、右手に何か光るものを手にしていた。

 それが銀色の巨大な拳銃だという事に気がつくのに、そう時間はかからなかった。


「てめえ、そこで何していやがる」


 影は路地から出ると、男の眉間のあたりに銃口を向けた。

 微かに火薬の臭いがする。さっき走って来た吸血種を撃ったのは、この銃なのだろう。

 男は影に向かって震える声で呟いた。


「な、な何もしていねえよ。な、なあ」


 男がそう言って私を見た。私が曖昧に頷くと、影は黙って銃口を下げた。

 男は声にならない叫び声を上げながら逃げていった。




 微かな火薬の臭いがする。拳銃を懐にしまい、私の方を見る。真っ直ぐに、私の方を見る。


 私を見る、深い海の底のような藍色の瞳が揺れている。


「あぁ」


 路地裏の暗闇に溶け込むような黒い服。

 動くたびに小さく音を立てる、身につけた大ぶりのピアスやネックレス、指輪などは、吸血種の忌諱きいする銀製だ。

 そして巨大な拳銃。銀色に光る拳銃には、吸血種の命を奪う銀の弾丸が込められているのだろう。


 寿命が尽きるまで、滅多なことでは死なない吸血種を葬り去る者。


 それで報酬を得るわけではない。けれども吸血種を魂の奥底から忌み嫌い、身体能力で人間を上回る吸血種相手に戦い、消し去る者。


 存在は知られている。だが「普通の」人達が、その姿を目にすることはほとんどない。

 拳銃を使うのは違法だし、防衛や救助目的以外で吸血種を消すことは、一応禁じられているからだ。それに「吸血種にも人間同様の権利と保護を」と叫ぶ一部の人達の目もある。

 彼らは。


 私は彼を見上げ、呟いた。

 夢と同じ言葉を。


「駿君、『狼』になったのね」

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