4.「兄」の優しさ
雨に濡れた体を支え合うようにしてロビーに戻ると、木村さんが悲しげな表情を浮かべて立っていた。
「ありがとう、木村さん」
杭を木村さんに返し、そう言って俯く。
「如月様、あの、今の社長と奥様の話ですが、その」
「あの野郎」
拳を強く握る。
かすれた声で絞り出すように呟く。
「
俯いた駿君の背中に、木村さんはそっと手を置いた。
しばらくそのまま、時間が過ぎる。
「あの時、言葉に惑わされて動けなくなった。俺だけじゃ言われっぱなしのまま奴を逃がす所だった。木村さん、本当に、いつもありがとう」
駿君の言葉に、木村さんはゆっくりと首を横に振った。
「そのスーツ、急いで持ってきてくだされば、今日中にクリーニングに出せます」
穏やかに話す彼の右手は、白くなるほど強く杭を握り締めていた。
部屋に戻ってからきちんと母親と男の事を詫びようと思っていたのに、駿君は部屋に戻るなり仕事部屋にこもってしまった。
どうも木村さんから連絡を受けて、仕事を放り出して帰ってきてしまったらしい。しばらくすると、駿君が珍しく大きな声で誰かに謝っているのが聞こえて来た。もし駿君の仕事に悪い影響が出てしまっていたらどうしよう。
お詫びのしるしにもならないが、コーヒーを淹れて持って行こうとキッチンに向かった時、自分ががたがたと震えているのに気がついた。
寒い。物凄く寒い。気温の低い外で雨に打たれたからだろうか。
この湧き上がるような強烈な寒気。売血直後の、あの寒気にそっくりだ。
部屋に戻ってすぐにシャワーを浴び、温かい部屋着を重ね着しているというのに寒い。立っているのもつらくなってきたので、ソファの上に丸くなって横になり、かつてそうしていたように、震えながら寒気が過ぎ去るのをじっと待った。
そのうち床に打った痛みとは別の頭痛がしてきたが、売血直後の飢餓感に比べたらまだ耐えられる。
「どうした」
仕事部屋から出て来て私の様子に気付いた駿君が、駆け寄ってきて私の顔を覗き込んだ。
先程までの怒りに歪んだ「狼」の顔じゃない。心配そうに私のことを見つめるその顔は、「兄」の顔だ。
「寒いの。さっき冷えちゃったみたい」
変に心配されないように、つとめて明るく答えた。
「それよりさっきはごめんなさい。あ、スーツ、早く木村さんの所へ」
起き上がろうとしたところを押さえられ、駿君の手が私の額に触れた。
いつもは温かい彼の手が、今はひんやりと冷たい。駿君は少し眉をひそめ、自分の額を私の額に合わせた。
ふっ、と、あの清潔感のある匂いが鼻をくすぐる。
駿君のひんやりとした額の感触。間近に迫った顔。一瞬どきりとしたが、その感覚はすぐに寒気と頭痛にかき消されてしまった。
駿君は私の体を抱きかかえ、ベッドの上に横たえた。布団をかけ、部屋の温度を上げる。そして部屋の外に出て誰かに電話をしていた。
いかないで。
薄暗い部屋の中、声を出さずに叫ぶ。
怖い。
暗い所で一人、寒気に襲われていると、嫌でも思い出してしまう。
路地裏や建物の陰で、寒気と飢餓感に襲われながらじっと横になっていたあの時を。
そばにいて。
駿君があの家を去ってから、私のそばに誰かがいることなんてなかった。親はあんなだし、友達もいない。学校に通ったことも、誰かと仕事をしたこともない。
そばに誰かがいないと寂しいなんて、こんな感情、一体どこから湧いてくるのだろう。
私は弱くなった。
駿君を呼ぼうとして、慌てて口をつぐむ。
私はいつもこうして頼ってばかり。だから今日だって、自分の親のせいで駿君に迷惑をかけた上に、悲しい過去の事件まで抉り出してしまった。
私が、ここに来たばっかりに。
「今、渡貫呼んだから。あいつが来るまでしばらく寝ていろ」
私の心の声が聞こえたかのように、駿君が部屋に戻って来た。
ベッドの縁に腰を掛ける。私が手を出すと、彼はその手をそっと包み込むように握った。
「俺が、花菜のそばにいるから」
優しい「兄」の言葉に、私の心は切ない熱に侵されていく。
一通りの診察が終わった後、渡貫さんはドアの方を向いて叫んだ。
「おーい、終わったぞ、もう入っていいぞこの変態」
診察が始まるというのに部屋を出るという発想がなかった駿君もなんだが、だからといって変態扱いもあんまりだ。
「で、どうなんだヤブ」
往診を頼んでおいてヤブ扱いも相当ひどい。お互い、相手の雑言を無視しながら会話を進める。
「これ以上熱が高くなって苦しそうならこいつを飲まないとだが、この位なら、下手に薬を飲まないで水を飲んで寝ていれば、そのうち良くなるよ。だが」
渡貫さんは言葉を切り、私の首筋を見た。
「行野さんは免疫力が低下している。だからこれからも、ちょっとした不調でも俺を呼んでくれ。あ、だからって駿、自分が風邪ひいた時に行野さんの名前を
「自分の風邪なら先輩の事なんかタダでも呼ばねえよ」
子供の言い争いみたいな低レベルの会話の後、渡貫さんは駿君の耳元に口を寄せて何かを囁き、帰って行った。
どうでもいいが、寝癖頭とあずき色のジャージ姿でない渡貫さんの姿を見て、実は誰が部屋に入って来たのか五秒くらい分からなかった。
すらりとした体型に整った顔。なんというか、「医師に扮した俳優」みたいな感じだった。
渡貫さんを玄関まで見送った駿君は、寝室に戻ってベッドに腰かけ、穏やかな笑みを浮かべて私の頭を撫でた。
駿君は優しい。
優しいけれど残酷だ。
私の気持ちを知っていながら、あくまでも「兄」として私のそばに寄り添う。
けれども今の私には、「兄」であり「狼」である彼を受け入れることしかできない。
彼の心の、悲しみと闇を覗いてしまった後では。
彼の魂を救いたい。
そのためには、どうしたらいいのだろう。私に何かできるのだろうか。
ああ、頭が痛い。意識がぼんやりとしてきた。
だめだ、何も考えられない。
今日だけは、もう、彼の頭を撫でる手の感触を感じ、彼の心を抱いて、眠ろう。
夢を見た。
母親がこちらに向かってくる。
香水の臭い、はげたマニキュア。
そして口元から飛び出す、二本の牙。
ああ、ついに吸血種に変身してしまったのか。
だからあの男を好きになったのか。
そこに駿君がやって来る。
杭を手にして、獣のような叫び声を上げて。
涙を流して。
私は彼から杭を奪い取る。
だめだよ駿君、これ以上あなたが涙を流す姿を見たくない。
私は叫び声を上げながら母親に杭を打ちおろした。
心臓を杭で打ち抜かれた母親は、小さな音を立てて灰になった。
灰は空へと舞い上がる。
そのとき、厚く空を覆った雲は、灰を吸い込んでいったかと思うと、ぱっと消え去り、そこには抜けるような青空が広がっていた。
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